南九州の制空権
すでに敵の手中にあり
我らが祖国
まさに崩壊せんとす
生をこの国にうけし者
なんぞ 生命を惜しまん
愚劣なりし日本よ
優柔不断なる日本よ
汝 いかに愚かなりとも
我ら この国の人たる以上
その防衛に 奮起せざるをえず
オプティミズム(楽観)をやめよ
眼をひらけ
日本の人々よ
日本は必ず負ける
そして我ら日本人は
なんとしてもこの国に
新たなる生命を吹き込み
新たなる再建の道を
切り開かなければならぬ
若きジェネレーション (世代)
君たちは
あまりにも苦しい運命と
闘わなければならない
だが 頑張ってくれ
盲目になって生きること
それほど正しいモラル(道徳)はない
死ではない
生なのだ
モラルのめざすものは
そして我らのごとく死を求むる者を
インモラリスト(不道徳)とは人は言わん。
<林尹夫 遺稿、文藝春秋09年1月号より引用>
尚、林尹夫氏は京都大学文学部西洋史科在学中に学徒出陣。
昭和20年7月28日、夜間索敵哨戒飛行中に敵の迎撃を受けて死亡。
このブログは終了しました。 日々のつぶやきはデイオブレコンに、 http://otakizawa.blogspot.com/ 解説はゴゴジャンTakizawa レター 今日の視点 明日の視点に移りました
2008年12月31日水曜日
2008年12月30日火曜日
年末、市況模様
12月に入った直後から年末年始からの世界情勢の変化を危惧する話が聞かれるようになった。時勢がらオバマ就任に合わせてのテロをイメージしていたが、まずは中東の古典的材料が復活した。ただ考えてみれば停戦協定が切れる期日を考慮すれば、今の閉塞感を打開する上でも再び中東が材料になる事は必然だったのかもしれない。
それにしても1日の攻撃としてはガザ地区の死者数はおびただしい。この死者の数だけで今後の展開をイメージすると空恐ろしいのも事実だ。だがその前に中東問題の基本をお浚いすると、まずパレスチナと一口にいってもガザはハマス、一方西岸地区はファタの勢力下である。過去10年はガザ地区が騒がしいく、最近はパレスチナ問題=ガザ地区と勘違いしている人が多いらしい。だがパレスチナの穏健中道はファタの下西岸地区でイスラエルと共存している。よって個人的判断基準はこの古典が70年代までのような世界の災いになってしまうかどうかは実はガザではなく、西岸地区の今後次第である。逆にいえば、戦闘が西岸地区まで波及しないかぎりこの問題は恐らくは誰かが意図している策略の範疇に収まる。そして相場もその連中の意図している方向に動くだろう。ただこれは危険なゲームの始まりである事は間違い。リスクは事態がそのコントロール下を逸脱していくことである。
そんな中で今の市場はホリデーシーズンと相まってまだトランス状態(薬の効果でぼうっとしている状態)である。この麻酔が覚めてまずどちらにブレるのか、今のところ明確なシグナルは出ていない。だがシナリオ通りだとすると世界情勢は悪化の様相になるだろう。下手をするとガザ(ハマス)からそのままイラン、更にはオバマ政権が一気にパキスタン/アフガニスタンの魔境地帯にまで巻き込まれるかもしれない。するとしばらくはドルと商品は下がり切らず、株はリ(イン)フレ期待からの援護射撃と企業と消費の悪材料が交錯する展開になるだろう。一方金利はFF(政策金利)の限界が近い以上は市場として主役になりにくいはずだ。せいぜい為替の受け皿程度の役割ではないか。
その今後の相場の主戦場となるべき為替市場が行き過ぎの反動で固定?に戻るような事態になれば、本当に金融機関によるマネーゲームの時代は一旦終わってしまうだろう。この市況の読者にとってはその時が実は本当の恐怖である・・。
2008年12月27日土曜日
年末特集<今日の視点>文系人材の欠乏
今オバマ次期大統領はハワイで休暇中である、その彼の見事な裸体(上半身)をいわゆるパパラッチが盗み撮りした。一方私自身はクリスマス休暇中に怠惰にもネットでTVドラマを探していた。そしてネットに掲載されたオバマの上半身を偶然見てしまった。ショックだった。私もそれなりに運動はしている。だが引き締まった彼の体は4歳年下の自分を蔑むに十分だった。
オバマは忙しい立場でも6キロのジョギングを欠かさないという。だが48歳にしてあのカッコよさは黒人というDNAを差し引いても、彼自身の努力の程が窺われる。実はオバマは幼少時代どちらかというと小太り気味だった。以前オバマ伝を書いた時、彼の母は小学生のオバマに出勤前の朝4時から3時間勉強をさせたという話を紹介したが、勉学同様今の彼の無駄のない体躯は恐らくその後の努力の賜物だろう。一方で永田町を牛耳る日本の政治家は赤坂界隈で身に纏った脂の量が貫録を現す時代がまだ続いている。
言うまでもなく日米は今歴史的苦境の真只中。経済の復活は政治家の英断の範疇にある。そんな中無論オバマはこちらでも特別な存在である。だから皆が期待している。一方の日本はこの局面にあってもこれまで同様の「脂的政局」を見せられているだけで新しい英雄による新しい国づくりの躍動には程遠い現状である。そしてこの差を考える上で幾つかの逸話を思いだした。それは幕末に咸臨丸で米国に渡った二人の英傑が初めて目の当たりにした米国について奇しくもその本質を突いた言葉を残した事だ。
勝海舟は日米のシステムの違いを端的に「我が国とは逆で、米国では上に立つ人はそれ相応に優秀である」との言葉を残し、また福沢諭吉は初代大統領ワシントンの子孫の行方を米国民が知らず、興味さえ持っていない事に米国躍進の本質を掴み取っているのである。即ち「政治家に本当の実力が備わっている事」そして「優れた政治家を選ぶ力が結果的に国家のシステムに存在する事」という現代に通じる二つの要素をこの二人は見抜いているのである。相場の世界にも通じるが、物事の本質を瞬時に掴み取る事と、改善を目指して一流を模倣する事は別の才能だと考える。この二人の英雄はまさに前者かもしれない。そして日本の戦後はこの二人のような資質が徐々に欠乏していった時代ではなかったか。
この疑問にスッキリとした意見を提供してくれたのが「国家の品格」の著者の藤原正彦氏だ。彼は最近雑誌の対談で面白い分析を披露した。戦後の名著の一つ、かの「きけ、わだつみの声」を紹介する過程で、彼は特攻で死んでいった学生には東大や慶応の高学歴者が多く、その遺書群の中に漢詩から西欧文学、また哲学やマルクス等の幅広い教養の跡を感じるというのである。そしてここからが藤原氏の分析だが、当時の特攻隊は文系学生が主体で理系の学生は即戦力として温存された為に戦後まで生き残った人が多く、それが日本の産業力復活の原動力になったとしていた。(文芸春秋より)なるほど。私の義理の父も戦後の日本の技術力を支えたエンジニアだが、以前に同様の話を聞いた覚えがある。だがこの話からも日本の文系学生のレベルの絶頂は実は戦前だったのではないかという疑念がよぎる。
そう言えば中曽根元総理は自身が徳富蘇峰で日本史の外郭を確立した事と、小泉元総理が司馬遼太郎の小説をよく持ち出した事を皮肉っていた。そして最近は麻生総理お気に入りの「ゴルゴ13」を読んで「麻生君は馬鹿だね」と雑誌で語っていた(週刊誌の新聞広告から)。この判断はやや老人の偏見の可能性も残しながら日本人として笑えない部分もある。
いずれにしても急速に景気が悪化した直後に日本政府が出した初案は総額2兆円のばら撒きだった。ただ米国からみるとこの策はこちらで殆ど効果がなかった春先の還付金の二番煎じにしか見えない。だとするとなぜ2兆円も出して効果がなかった還付金をマネをするのか。日本の技術はノーベル賞や昨日の宇宙ロケット技術の話題からも独自の力は維持されている様子。だがその技術力を活かすための総合力としての政治力、そしてその根幹となるべき文化(系)の力はいつのまにか偏差値上の案記力や米国のモノマネのスピードが尺度になってしまったと感じるのは私だけだろうか。
ところで金融の世界でも相場を理系の人に任せる事が流行りだして久しい。ただそれが100点満点の回答ではなかった事は既に証明された。やはり総合力では文系と理系の両方の資質が不可欠という事だろう。ただ一人の人間が二つの資質を身につけるのはやはり難しい。現実的には双方を兼ね備えた人を探し育てるより、マネジメント上は双方の人材を適度に整備する方が簡単である。ただこれまでの常識に反して日本の社会(実業)に欠乏しているのは実は文系の人材ではないだろうか。標準化された「文系」は溢れている中で本物の文系の人材が実はいない。そうだ。あの特攻で散っていった学生のような・・。そんな事を感じる年の瀬である。
オバマは忙しい立場でも6キロのジョギングを欠かさないという。だが48歳にしてあのカッコよさは黒人というDNAを差し引いても、彼自身の努力の程が窺われる。実はオバマは幼少時代どちらかというと小太り気味だった。以前オバマ伝を書いた時、彼の母は小学生のオバマに出勤前の朝4時から3時間勉強をさせたという話を紹介したが、勉学同様今の彼の無駄のない体躯は恐らくその後の努力の賜物だろう。一方で永田町を牛耳る日本の政治家は赤坂界隈で身に纏った脂の量が貫録を現す時代がまだ続いている。
言うまでもなく日米は今歴史的苦境の真只中。経済の復活は政治家の英断の範疇にある。そんな中無論オバマはこちらでも特別な存在である。だから皆が期待している。一方の日本はこの局面にあってもこれまで同様の「脂的政局」を見せられているだけで新しい英雄による新しい国づくりの躍動には程遠い現状である。そしてこの差を考える上で幾つかの逸話を思いだした。それは幕末に咸臨丸で米国に渡った二人の英傑が初めて目の当たりにした米国について奇しくもその本質を突いた言葉を残した事だ。
勝海舟は日米のシステムの違いを端的に「我が国とは逆で、米国では上に立つ人はそれ相応に優秀である」との言葉を残し、また福沢諭吉は初代大統領ワシントンの子孫の行方を米国民が知らず、興味さえ持っていない事に米国躍進の本質を掴み取っているのである。即ち「政治家に本当の実力が備わっている事」そして「優れた政治家を選ぶ力が結果的に国家のシステムに存在する事」という現代に通じる二つの要素をこの二人は見抜いているのである。相場の世界にも通じるが、物事の本質を瞬時に掴み取る事と、改善を目指して一流を模倣する事は別の才能だと考える。この二人の英雄はまさに前者かもしれない。そして日本の戦後はこの二人のような資質が徐々に欠乏していった時代ではなかったか。
この疑問にスッキリとした意見を提供してくれたのが「国家の品格」の著者の藤原正彦氏だ。彼は最近雑誌の対談で面白い分析を披露した。戦後の名著の一つ、かの「きけ、わだつみの声」を紹介する過程で、彼は特攻で死んでいった学生には東大や慶応の高学歴者が多く、その遺書群の中に漢詩から西欧文学、また哲学やマルクス等の幅広い教養の跡を感じるというのである。そしてここからが藤原氏の分析だが、当時の特攻隊は文系学生が主体で理系の学生は即戦力として温存された為に戦後まで生き残った人が多く、それが日本の産業力復活の原動力になったとしていた。(文芸春秋より)なるほど。私の義理の父も戦後の日本の技術力を支えたエンジニアだが、以前に同様の話を聞いた覚えがある。だがこの話からも日本の文系学生のレベルの絶頂は実は戦前だったのではないかという疑念がよぎる。
そう言えば中曽根元総理は自身が徳富蘇峰で日本史の外郭を確立した事と、小泉元総理が司馬遼太郎の小説をよく持ち出した事を皮肉っていた。そして最近は麻生総理お気に入りの「ゴルゴ13」を読んで「麻生君は馬鹿だね」と雑誌で語っていた(週刊誌の新聞広告から)。この判断はやや老人の偏見の可能性も残しながら日本人として笑えない部分もある。
いずれにしても急速に景気が悪化した直後に日本政府が出した初案は総額2兆円のばら撒きだった。ただ米国からみるとこの策はこちらで殆ど効果がなかった春先の還付金の二番煎じにしか見えない。だとするとなぜ2兆円も出して効果がなかった還付金をマネをするのか。日本の技術はノーベル賞や昨日の宇宙ロケット技術の話題からも独自の力は維持されている様子。だがその技術力を活かすための総合力としての政治力、そしてその根幹となるべき文化(系)の力はいつのまにか偏差値上の案記力や米国のモノマネのスピードが尺度になってしまったと感じるのは私だけだろうか。
ところで金融の世界でも相場を理系の人に任せる事が流行りだして久しい。ただそれが100点満点の回答ではなかった事は既に証明された。やはり総合力では文系と理系の両方の資質が不可欠という事だろう。ただ一人の人間が二つの資質を身につけるのはやはり難しい。現実的には双方を兼ね備えた人を探し育てるより、マネジメント上は双方の人材を適度に整備する方が簡単である。ただこれまでの常識に反して日本の社会(実業)に欠乏しているのは実は文系の人材ではないだろうか。標準化された「文系」は溢れている中で本物の文系の人材が実はいない。そうだ。あの特攻で散っていった学生のような・・。そんな事を感じる年の瀬である。
2008年12月24日水曜日
<今日の視点> アメフト(力)
年末になり、こちらではアメリカンフットボールのシーズンも佳境を迎えている。昨日は摂氏-25度という極寒の中、伝統のシカゴベアーズ対グリーンベイパッカーズの試合が行われた。勿論6万人が入るソルジャースタジアムは満員である。中には裸になって盛り上げようする馬鹿な若者達もいた。
そもそも米国人のアメフトに対する熱狂は日本からでは絶対に解らない。ただこのエネルギーは凄いの一言だ。昨日あのスタジアムで一体どれだけの熱量(科学でいうところの)が生まれ、そして消費されただろうか。個人的にも過去幾度もシカゴベアースのゲームには誘われた。だがシカゴの寒さの中でゲームを見る気には一度もならなかった。そして今年は天候だけでなく皆の懐も極寒のはず、そんな中どのくらいの観客が入るか興味深かった。結果はTV画面に映し出された観客の数に圧倒された。
元々格式や常識を重んじ儒教に基本的価値を置く日本人は相撲や駅伝が好きだ。だが、天候も寒く、確実に懐も寒い今の米国人があれだけの熱量を生み出せるとしたら、それは「アメフト力」とでも呼ぶしかない。そしてこの「アメフト力」が持つ「無謀な力」は世界を支配しながらもどここかで政治や貧しさを感じさせる「サッカー力」とも異質である。強いて言うなら、私があの裸の若者達に感じたモノは、その昔甲板の米兵が突っ込んでくる神風特攻隊に感じた恐ろしさではないか。
そして「相撲力」や「駅伝力」からの常識で米国を分析する事はもしかしたら間違っているかもしれないと感じだ。なぜなら米国は指導者に「マジック力」があればこの「アメフト力」を最大に引き出す事が可能だからだ。そしてその熱量は測り知れない事が昨日の熱気が証明している。
いずれにしても、これまで私自身はアメフトに狂う米国人の無知と無謀さを覚めた感覚で観てきた。しかし実はこの熱量の創造力を本当は見習うべきかもしれない。
そもそも米国人のアメフトに対する熱狂は日本からでは絶対に解らない。ただこのエネルギーは凄いの一言だ。昨日あのスタジアムで一体どれだけの熱量(科学でいうところの)が生まれ、そして消費されただろうか。個人的にも過去幾度もシカゴベアースのゲームには誘われた。だがシカゴの寒さの中でゲームを見る気には一度もならなかった。そして今年は天候だけでなく皆の懐も極寒のはず、そんな中どのくらいの観客が入るか興味深かった。結果はTV画面に映し出された観客の数に圧倒された。
元々格式や常識を重んじ儒教に基本的価値を置く日本人は相撲や駅伝が好きだ。だが、天候も寒く、確実に懐も寒い今の米国人があれだけの熱量を生み出せるとしたら、それは「アメフト力」とでも呼ぶしかない。そしてこの「アメフト力」が持つ「無謀な力」は世界を支配しながらもどここかで政治や貧しさを感じさせる「サッカー力」とも異質である。強いて言うなら、私があの裸の若者達に感じたモノは、その昔甲板の米兵が突っ込んでくる神風特攻隊に感じた恐ろしさではないか。
そして「相撲力」や「駅伝力」からの常識で米国を分析する事はもしかしたら間違っているかもしれないと感じだ。なぜなら米国は指導者に「マジック力」があればこの「アメフト力」を最大に引き出す事が可能だからだ。そしてその熱量は測り知れない事が昨日の熱気が証明している。
いずれにしても、これまで私自身はアメフトに狂う米国人の無知と無謀さを覚めた感覚で観てきた。しかし実はこの熱量の創造力を本当は見習うべきかもしれない。
2008年12月23日火曜日
<今日の視点>マネーシャーマニズム
朝から面白い話だ。最近、水をえた魚の様にバーナンケ(中央銀行議長) の顔が活き活きしている。その理由は明らかである。まだ市場が市場の原理で動いていた時代、FED(中央銀行)は絶対的だったとはいえ、市場での1プレーヤーとして自己を抑制していた。従ってFEDがその絶対性を堅持するためには市場の動きに精通した人間、或いはそれが出来ると周りから信じられる人間がFEDを支配する事が不可欠だった。それが絶頂期のグリーンスパン前議長である。
その意味でバーナンケは市場のプレーヤーとしてのカリスマ性は前任者よりも最初から劣っていた。従って彼は就任以来どこかでその自信の無さを引きずり、その言動が激動の過程にあった市場の他の参加者による非難(捌け口)の対象になっていった。しかし時代は変わった。表面はともかく、一時的かもしれないが本質では市場の時代は終焉し、デフレ下の統制の時代が始まった。そうだ。彼の時代が始まったのである。だから世の苦境とは裏腹に水を得た魚のように彼は生き生きし始めたのであろう。
そしてデフレの専門家である彼はドルをばら撒きはじめた。ただここからが面白い話だ。朝のCNBCでは誰かがこの現実を皮肉り、それならいっその事米国民全てに10億円ずつ配ったらどうかというのである。真に本質を言い当てた話。そして計算したところ、3億の米国人に10億円ずつ配った場合、ドル換算で3「QUADRILLION」日本円にして「30京円」が必要になるという。(QUADRILLIONは1兆ドルの1000倍の位)
そう言えば以前視点では世界で蠢くデリバテイブの全額は1万円札を月まで積み重ねた金額でも追いつかないと表現した。38万キロの月までは3.8京円を積み重ねれば到達するが、記事を書いた9月の段階でデリバテイブ(派生金融商品)の総額は6京円に迫っていたのである。その時この「京の時代」の到来に興味をもった雑誌社から原稿執筆の依頼があった。そしてその記事は韓国の有力月刊誌にも転載されたとの連絡があった。一体これは何を意味するのか。
まず麻薬の重症患者が禁断の治療を諦め、痛みを止めるために更に麻薬を求めたとする。そしてその麻薬は単一機関の専売特許だった場合どうなるか。別の誰かがこの権利を共有しようとするか、或いは奪い取ろうとすると、歴史はその誰かを犯罪者にするか、または抹殺してきた。今のバーナンケはこのマネーシャーマニズムの崇拝の対象となった。夏までの批判が崇拝の対象に代わったのである。CNBCで自分の番組を持つジム クレーマーはその代表だ。そして英国や日本軍(関東軍)が中国や満州以南を支配した方法と同じ終末の麻薬政策、中央銀行によるマネーシャーマニズムを巷では量的緩和と呼ぶ。そしてその政策には新しい規模の金の位が必要になる。それが「京」や「QUADRILLION」である。
昔なら天文学の入口でみただけの「京」や「QUADRILLION」という位がマネーの世界では必要になり始めた事を世界も感じ始めた。ただ多くがそれをどう受け止めるべきかまだ分からない。「未来のインフレ」などと教科書的な話をしてみても代替価値としてのGOLDの値動きもいまいちだ。当然だろう。激痛に耐えかねてモルヒネ(麻薬)を打ち始めた体は最早覚醒しない。痛みの除去と引き換えにぼんやりとした感覚の中で生命体はその最後を迎えるだけだ。それを通常シャーマニズムでは「トランス状態」という。そうだ。今世界はトランス状態に入ったのだ。だが未来志向で言うなら、世界は一旦死に、今度は新しい体で再び生き返る過程に入ったとも言える。しかしその過程においても麻薬だけでは大した有効需要は生まれなかった事実も歴史は証明している。
今オバマ政権が真似始めたあのルーズベルトのニューデイール政策だけでは米国は復活しなかった。そう、マーシャルプランだ。そして、ヨーロッパの復興を舞台にした有効需要がマーシャルプランだったとするなら、新政権の黒幕は次はアジアを舞台にした新マーシャルプランを既に練りはじめている気配を感じるのは私だけだろうか。
その意味でバーナンケは市場のプレーヤーとしてのカリスマ性は前任者よりも最初から劣っていた。従って彼は就任以来どこかでその自信の無さを引きずり、その言動が激動の過程にあった市場の他の参加者による非難(捌け口)の対象になっていった。しかし時代は変わった。表面はともかく、一時的かもしれないが本質では市場の時代は終焉し、デフレ下の統制の時代が始まった。そうだ。彼の時代が始まったのである。だから世の苦境とは裏腹に水を得た魚のように彼は生き生きし始めたのであろう。
そしてデフレの専門家である彼はドルをばら撒きはじめた。ただここからが面白い話だ。朝のCNBCでは誰かがこの現実を皮肉り、それならいっその事米国民全てに10億円ずつ配ったらどうかというのである。真に本質を言い当てた話。そして計算したところ、3億の米国人に10億円ずつ配った場合、ドル換算で3「QUADRILLION」日本円にして「30京円」が必要になるという。(QUADRILLIONは1兆ドルの1000倍の位)
そう言えば以前視点では世界で蠢くデリバテイブの全額は1万円札を月まで積み重ねた金額でも追いつかないと表現した。38万キロの月までは3.8京円を積み重ねれば到達するが、記事を書いた9月の段階でデリバテイブ(派生金融商品)の総額は6京円に迫っていたのである。その時この「京の時代」の到来に興味をもった雑誌社から原稿執筆の依頼があった。そしてその記事は韓国の有力月刊誌にも転載されたとの連絡があった。一体これは何を意味するのか。
まず麻薬の重症患者が禁断の治療を諦め、痛みを止めるために更に麻薬を求めたとする。そしてその麻薬は単一機関の専売特許だった場合どうなるか。別の誰かがこの権利を共有しようとするか、或いは奪い取ろうとすると、歴史はその誰かを犯罪者にするか、または抹殺してきた。今のバーナンケはこのマネーシャーマニズムの崇拝の対象となった。夏までの批判が崇拝の対象に代わったのである。CNBCで自分の番組を持つジム クレーマーはその代表だ。そして英国や日本軍(関東軍)が中国や満州以南を支配した方法と同じ終末の麻薬政策、中央銀行によるマネーシャーマニズムを巷では量的緩和と呼ぶ。そしてその政策には新しい規模の金の位が必要になる。それが「京」や「QUADRILLION」である。
昔なら天文学の入口でみただけの「京」や「QUADRILLION」という位がマネーの世界では必要になり始めた事を世界も感じ始めた。ただ多くがそれをどう受け止めるべきかまだ分からない。「未来のインフレ」などと教科書的な話をしてみても代替価値としてのGOLDの値動きもいまいちだ。当然だろう。激痛に耐えかねてモルヒネ(麻薬)を打ち始めた体は最早覚醒しない。痛みの除去と引き換えにぼんやりとした感覚の中で生命体はその最後を迎えるだけだ。それを通常シャーマニズムでは「トランス状態」という。そうだ。今世界はトランス状態に入ったのだ。だが未来志向で言うなら、世界は一旦死に、今度は新しい体で再び生き返る過程に入ったとも言える。しかしその過程においても麻薬だけでは大した有効需要は生まれなかった事実も歴史は証明している。
今オバマ政権が真似始めたあのルーズベルトのニューデイール政策だけでは米国は復活しなかった。そう、マーシャルプランだ。そして、ヨーロッパの復興を舞台にした有効需要がマーシャルプランだったとするなら、新政権の黒幕は次はアジアを舞台にした新マーシャルプランを既に練りはじめている気配を感じるのは私だけだろうか。
2008年12月20日土曜日
<今日の視点>コロンブスの卵
20年前、中京圏で証券営業の仕事をしていた時の話だ。取り引き先の何人かの中堅企業の社長が同じ逸話を紹介してくれた。トヨタが無借金会社に変貌できたのは、その昔まだトヨタが資金繰りに苦労した時代、銀行に冷たくされた事がきっかけだったという。臥薪嘗胆、それ以降トヨタは銀行に頼らない会社経営を目指すことになった・・。
その意味では今起こっている金融危機からの困窮は変革へのチャンスでもある。ただ勿論全員が生き残れるわけではない。恐らくは早く自己否定を敢行した者。また早くコロンブスの卵(卵は潰してたてる)に気がついた者からその切符を手にする事になるだろう。しかし本日はそのトヨタでさえも71年ぶりに赤字になるかもしれないという話が米国の朝のニュースでも大々的に報道されていた。今はそういう時代だ。サバイバルの時代、中途半端な感覚(の人や会社)はいらないという事であろう。
その意味では今起こっている金融危機からの困窮は変革へのチャンスでもある。ただ勿論全員が生き残れるわけではない。恐らくは早く自己否定を敢行した者。また早くコロンブスの卵(卵は潰してたてる)に気がついた者からその切符を手にする事になるだろう。しかし本日はそのトヨタでさえも71年ぶりに赤字になるかもしれないという話が米国の朝のニュースでも大々的に報道されていた。今はそういう時代だ。サバイバルの時代、中途半端な感覚(の人や会社)はいらないという事であろう。
2008年12月17日水曜日
<国家の焦点>プット/コール レシオ
今日のFOMC(中央銀行の金利操作)が何を意味しているかは言うまでもない。既に始まっているが、これからは痛んだ民間のバランスシート(資産)を一時的にせよ国家(FED)が引き受けるというメッセージである。
民間で発生したリスクを国家のバランスシートで引き受ける行為は、判断の失敗の責任を問われない場合、憂いを残しながらの新型社会主義政策である。そして米国はあくまでも国家とそのバランスシートを市場参加者の一人としてカウントする事で「市場原理の旗」は降ろさないという茶番を演じている。
まあそんな経済のイデオロギーなど本当はどうでもよい。どの時代も経済は政治判断の結果であり、イデオロギーなどは一種のトレンドであって絶対性などない。その時代の国民が幸せならいいのだ。その意味もあり「視点」ではフリードマンが亡くなった数年前から彼の原理が支柱となった市場原理は冷戦以降に流行ったトレンドにすぎず、米国でもケインズが主流だった時の方が長いと主張してきた。そう、これからはその主流に戻るのである。
そして官僚統治が続く日本では困難である事を承知で言うと、今こそ日本が米国に見習うべきはこの政治判断の迅速性である。考えてみるとこのブッシュ政権は小泉/竹中ラインに市場原理の徹底をあそこまで迫った政権である。ところが一旦システムが崩壊すると、そこからの転換は早かった。大統領選挙という変節もあり、国家が最大の利益を得るためにどう動くべきかの政治的判断は迅速だった。一方で属国の日本はあまりの米国の変節の速さについていけてない様子である。
ところで米国では「コロンブスの卵」の話は聞かない。だが今回の金融機危はFED(中央銀行)の機能を一気に拡大させた効果を持つ。これだけのFEDの権限の拡大は慣例やルールの枠組みが支配する平時ではなかなか進まなかっただろう。そうだ。今回の金融危機は実はFED機能拡大の為のショック療法に使われたのだ。そしてその発想の根源はあのコロンブスの卵である。
一方で悲観的な現象面の解説と常識にとらわれた中で改善策が見つからず無駄に時間が過ぎているが日本である。言い換えると日本は潰さないで卵を立てる方法をまだみんなで探っているような認識の甘さを感じさせる。いずれにしても重要な事はこの金融危機は経済問題ではなく政治判断の問題だとの認識である。しかし日本からのNEWSを見る限り、政治家は事態をまだ経済の問題と勘違いしているか、あるいは判っていても政治判断する責務から逃避している様に見える。
ところでそんな統治の立場としての日米の違いもさることながら、国民の価値観からの救済の本質の違いも大きい。昨日NHKでは派遣労働者の苦境をセーフティーネットの不備を説く議論で代弁していた。ただこの議論は全く無意味だ。なぜなら日本はシステムを完全に米国に同化したまま救済案の向かうベクトルが定まっていない状態である。その事例はプット/コールのオプションで簡単に説明できる。
まず「コール」とは、商品が値上がりした場合、その商品を実際には買っていなくとも値上がりした分を受け取れる権利である。一方「プット」とは、商品が値下がりした場合、その商品を売り損ねても値下がりした分を補填してもらえる権利である。そしてそのオプションとは、それぞれの権利を得るため保険と考えればよい。
そして米国はこれまでコールオプションの国だった。その代表が金融機関の報酬。ヘッジファンドも銀行のトレーダーも結果に応じて報酬が天井なしに延び、一方で結果に関係なくファンドは入口で2%の手数料を徴収し、また銀行のトレーダーも失敗しても給料から引かれる事はなかった。要するに成功した場合の報酬には上限がなく、失敗した時の損失は保険料の損失だけに限定されるコールオプションの原則がこの国の成長を支えたのだ。
一方日本人の本質は元々プットオプションを持つ事であった。この保険を持つ事で成功した時に浮かれ過ぎるより困った時の社会保障の確保を重視してきたのである。ところが日本のシステムは小泉/竹中コンビが推し進めたコールオプション型社会への変革が途中で止まり、今は静止状態である。このまま進むのか戻るのか。静止状態から転換ができていない。
これは相場と同じだ。間違えたと思うなら直ちに転換が必要。一方このまま進むならそれも良し。後は天運である。問題は脳死状態が長く続く事。米国はオバマ政権がコールオプション主義を変えるだろう。そしてそのスピードも速い。一方日本は現象面の悲観とその解説に留まっている。今のサバイバルの時代にぐずぐずしている暇はない。この時間の使い方に対する政治的決断力の欠如が日本の致命傷にならない事を心から願う。そうだ。今日本の政治に必要なのはあのパフォーマンス力だ。邪道だがここは小泉元総理にもう一度登場を願おう。そして彼は叫ぶ。「みんな、俺は間違えた。急いで引き返そう・・」と。
民間で発生したリスクを国家のバランスシートで引き受ける行為は、判断の失敗の責任を問われない場合、憂いを残しながらの新型社会主義政策である。そして米国はあくまでも国家とそのバランスシートを市場参加者の一人としてカウントする事で「市場原理の旗」は降ろさないという茶番を演じている。
まあそんな経済のイデオロギーなど本当はどうでもよい。どの時代も経済は政治判断の結果であり、イデオロギーなどは一種のトレンドであって絶対性などない。その時代の国民が幸せならいいのだ。その意味もあり「視点」ではフリードマンが亡くなった数年前から彼の原理が支柱となった市場原理は冷戦以降に流行ったトレンドにすぎず、米国でもケインズが主流だった時の方が長いと主張してきた。そう、これからはその主流に戻るのである。
そして官僚統治が続く日本では困難である事を承知で言うと、今こそ日本が米国に見習うべきはこの政治判断の迅速性である。考えてみるとこのブッシュ政権は小泉/竹中ラインに市場原理の徹底をあそこまで迫った政権である。ところが一旦システムが崩壊すると、そこからの転換は早かった。大統領選挙という変節もあり、国家が最大の利益を得るためにどう動くべきかの政治的判断は迅速だった。一方で属国の日本はあまりの米国の変節の速さについていけてない様子である。
ところで米国では「コロンブスの卵」の話は聞かない。だが今回の金融機危はFED(中央銀行)の機能を一気に拡大させた効果を持つ。これだけのFEDの権限の拡大は慣例やルールの枠組みが支配する平時ではなかなか進まなかっただろう。そうだ。今回の金融危機は実はFED機能拡大の為のショック療法に使われたのだ。そしてその発想の根源はあのコロンブスの卵である。
一方で悲観的な現象面の解説と常識にとらわれた中で改善策が見つからず無駄に時間が過ぎているが日本である。言い換えると日本は潰さないで卵を立てる方法をまだみんなで探っているような認識の甘さを感じさせる。いずれにしても重要な事はこの金融危機は経済問題ではなく政治判断の問題だとの認識である。しかし日本からのNEWSを見る限り、政治家は事態をまだ経済の問題と勘違いしているか、あるいは判っていても政治判断する責務から逃避している様に見える。
ところでそんな統治の立場としての日米の違いもさることながら、国民の価値観からの救済の本質の違いも大きい。昨日NHKでは派遣労働者の苦境をセーフティーネットの不備を説く議論で代弁していた。ただこの議論は全く無意味だ。なぜなら日本はシステムを完全に米国に同化したまま救済案の向かうベクトルが定まっていない状態である。その事例はプット/コールのオプションで簡単に説明できる。
まず「コール」とは、商品が値上がりした場合、その商品を実際には買っていなくとも値上がりした分を受け取れる権利である。一方「プット」とは、商品が値下がりした場合、その商品を売り損ねても値下がりした分を補填してもらえる権利である。そしてそのオプションとは、それぞれの権利を得るため保険と考えればよい。
そして米国はこれまでコールオプションの国だった。その代表が金融機関の報酬。ヘッジファンドも銀行のトレーダーも結果に応じて報酬が天井なしに延び、一方で結果に関係なくファンドは入口で2%の手数料を徴収し、また銀行のトレーダーも失敗しても給料から引かれる事はなかった。要するに成功した場合の報酬には上限がなく、失敗した時の損失は保険料の損失だけに限定されるコールオプションの原則がこの国の成長を支えたのだ。
一方日本人の本質は元々プットオプションを持つ事であった。この保険を持つ事で成功した時に浮かれ過ぎるより困った時の社会保障の確保を重視してきたのである。ところが日本のシステムは小泉/竹中コンビが推し進めたコールオプション型社会への変革が途中で止まり、今は静止状態である。このまま進むのか戻るのか。静止状態から転換ができていない。
これは相場と同じだ。間違えたと思うなら直ちに転換が必要。一方このまま進むならそれも良し。後は天運である。問題は脳死状態が長く続く事。米国はオバマ政権がコールオプション主義を変えるだろう。そしてそのスピードも速い。一方日本は現象面の悲観とその解説に留まっている。今のサバイバルの時代にぐずぐずしている暇はない。この時間の使い方に対する政治的決断力の欠如が日本の致命傷にならない事を心から願う。そうだ。今日本の政治に必要なのはあのパフォーマンス力だ。邪道だがここは小泉元総理にもう一度登場を願おう。そして彼は叫ぶ。「みんな、俺は間違えた。急いで引き返そう・・」と。
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