5月23日のバーナンキショックの直前、ヒンデンブルグオーメンが出ていたという。この時初めてそれが株のトレンドの話だと知った。オーメンなどと言われているのは大げさだと思ったが、やはり株は7月に戻った。そのオーメンが再び出たという。
同じ頃、また株は下がり始めた。ずばり今度は怖い。なぜなら今回は昔から知るヒンデンブルグと重なるからだ。今回株は8月2日がターニングポイントだった。8月2日はヒンデンブルグ大統領の命日である・・。(添付)
1934年8月2日にヒンデンブルグ大統領が死んで世界はどうなったか。飛行船の話ではない。大統領の死後、人類は史上最大の不幸に突入した。そして実はこの予兆は一ヶ月前の日本にあった。日本で麻生大臣が、民主憲法のワイマール下でどうやってナチスが誕生したか学べと口走った。日本では大騒ぎになった。
大臣は実に間のいい人だ。恐らくご本人や彼を批判するマスコミが知らない才能だと思う。そして問いの答えは「複合的」が一般的。ただ究極はヒンデンブルグ大統領が絶妙のタイミングで死んだことがヒトラーの独裁を生み出してしまった。それは近代史の本に書いてある。ならばこれこそがオーメン。
そもそも第二次世界大戦の主役はドイツとソ連。次が中国。その次が日本やイギリスが客観的な見方だろう。ただ終わらせたのは米国の力だった。では米国はこの戦争にどうかかわったのか。
1929年の株の暴落から大恐慌が始まった。ダウは1932年には高値から1/10まで下落した。ただそこからルーズベルト大統領のニューデイール政策で1937年には3倍まで戻した。しかしそこで息切れた。
このパターンは、金融危機から5年間が経過したオバマ政権とバーナンキFEDの救済策の今後の展開を探る上で重要な前例である。そしてこの息切れの直前、ヒンデンブルグ号がニュージャージに墜落した。1937年の秋だった。
この頃ヒトラーの独裁は確立されていたが、ドイツから飛行船が飛来するように、米国はヒトラーと戦争をする覚悟はまだなかった。しかしこの頃よりルーズベルトは動いていた。前例の無い大統領三選の名誉もあったかもしれない。しかし三選には、国内経済は再びの下落に絶えられない状態だった。
貧富の差は限界、「華麗なるギャッビー」と「怒りの葡萄」の二極化だった。ドイツもアメリカに振り回された。米国が狂乱景気の1920年代、敗戦国ドイツは米国からの借り入れで何とか賠償金を払っていた。ところが大恐慌で様相が変わる。借金のために紙幣をするしかなかった。その結果が以下だ。
July 1914: 4 marks = $1
Jan. 1923: 353,000 marks = $1
Nov. 1923: 4 trillion marks = $1
こうなると人は二極化するしかない。強い指導者の下に集まるか、社会主義(共産主義)に分かれる。ヒトラーの時代、ドイツの株も戻った。それを脅かす存在として、彼は反共主義を掲げた。
一方英国のチャーチルに靡き、ルーズベルトは1939年ごろにはドイツと戦う覚悟を決めた。だが国民を戦争に向ける材料がなかった。
米国にはドイツ系移民が多い。ヒトラーはフォードやエクソン IBMのビッグビジネスの顧客だった。そんな時に日本が三国同盟を結ぶ。この時ルーズベルトには日本と戦争をする理由ができた。後は日本次第・・。
ドイツと戦うのを嫌がった米国民も、パールハーバーでアジア人に攻撃された怒りと愛国心で一変した。一ヵ月後、米国はドイツに宣戦布告をした。アーセナルオブデモクラシーが全開ととなった。
そして、日本とドイツを最後に叩きのめした米国が、日本とドイツの復興を支えた。これが20世紀の資本主義圏のマクロ経済の本質だと思う。そこに対抗軸としてソ連。ソ連の存在はケネデイーの頃一触即発の危機を迎えたが、総じて米国には重要な敵役だった。国防でGDPを上げ、何より国民に一定の緊張感を与えていた。
そして緊張がレーガン・ブッシュ時代の冷戦勝利で終わり、クリントン時代が始まると政治より経済が上?になった。ジョージWブッシュ大統領は米国史上初めてのMBA出身者だ。
こうしてこの20年の相場があった。不思議なことに、再びヒンデンブルグのオーメンが市場で話題。ただ本当の怖さは騰落レシオではない。80年周期の4Th ターニングを迎える中、世界を巻き込んだ大戦争はそうそうできるものではない。(シリアでは無理)なら開きすぎたスプレッドをどう解消するのか。
今は1%も99%も同じ一票である。こうして始まった反金融、増税のうねり。これが本当のオーメンであることをまだ市場は知らない・・
0 件のコメント:
コメントを投稿