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2012年11月7日水曜日
日本の正体、心地よい奴隷社会
「世界で一つだけの花になることは、NO1に成ること同等に大変なこと。その覚悟がなく、もし組織社会で埋没することのエクスキューズで10年もこの歌が流行ってきたなら、日本の正体がそこに見える・・と、かなり過激な事をFACEBOOKのクラブインベストライフに書いた。賛同意見が多いことに驚いた。しかしその世代は皆エネルギー十分な先輩だった。
自主独立には命を懸けたプライドが必要だ。そんななかクローズアップ現代で尼崎事件をやっていた。結論は角田被告は現代の法治社会において特定の人と奴隷関係を構築したようだ。ただいくら角田被告が心理操作に長けていたとしても、あれだけの相関チャートは異常。個人的にはこの事件の本質は、被告の異常性よりも、被害者側に共通する特質にあると感じる。
そもそも奴隷関係は社会がなければ存在しない。社会よりも孤立を好んだネアンデルタール人が多く住んだ欧州には、エジプトや中南米文明のピラミッドやアジアの古墳のような大遺跡はあまりない。ネアンデルタール人とコーカソイド(白色人種)の関係は判らないが、ピラミッドや古墳の構築に奴隷は不可欠だったわけで、奴隷社会はやはりネグロイド(黒色人種)やモンゴロイド(黄色人種)の方に起こりやすいのではないか。
西洋学説では人権が初めて歴史に登場確立したのは古代ギリシャのポリスらしい。戦争に負けた方が奴隷になるのはローマ時代も続き、その労働力はパルテノン神殿やローマのコロシアム建設に不可欠だった。そしてゲルマン人が西ローマ帝国に侵入してからは奴隷は農奴へと格上げされた。奴隷にもある程度の人権が認められると中世の封建社会が始まった。
白人が作る歴史戦争映画には共通する特徴がある。それは白人は個々の兵士が人格や人権のある人間として描かれるが、有色文明の敵は感情を持たない塊のように描かれる。ここに人権に対する白人のこだわりを感じる。始まりはペルシャ戦争らしい。コンピュータグラフィックを駆使した映画「300」では、ペルシャのクセルクセス大王率いる20万を、国家と民族のプライドかけて屈強なスパルタ人300が迎え撃つ。彼らは人格人権を持った人間として戦う事を選んだのだ。
一応史実とされているが、ペルシャ戦争はギリシャが当時国力で10倍以上だったイランを撃退した戦争であり、ギリシャ軍は人権を持つ平民で構成されていた事が、後にギリシャがデモクラシーをうみ、欧州が他の文明に先駆けて近代の扉を開いたとする優越感の起点になっている。だが、当時既に人種や宗教に寛大だったとされるペルシャや、孔子の教えが既にあった春秋時代の中国に対し、自惚れの面も否定できない。
世界的には稀有な組織社会をここまで進化させた日本で起こった奇怪な尼崎事件は、近代デモクラシーの象徴である米国の大統領選挙の日のテーマとしてはふさわしいと思っている・・。
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