山中教授のノーベル賞受賞を聞いて、オルフェーブルも凱旋門賞を勝っていればと余計に残念になった。あのラストスパートの爆発力は「彼」が世界最強であると感じさせたが勝負は別物。聞くところによると、トップに出たとたん、コースを内側にはずれ柵をこすったとか・・。
あの爆発力とその後のコントロールのアンバランス。調教師や騎手にとってはてオルフェーブルほどの実験材料はないのではないか。しかし年齢を重ねることで力を失わず彼が「大人」になるかは疑問。一方で山中教授はどこまでも謙虚で日本人としては誇らしい限りだ。世界を知り、ノーベル賞受賞者としては若いことも教授をより謙虚にしてる雰囲気を感じた。
いってしまえばここが本能だけのと馬と人間の知恵の違い。そういえばアダムスミスの「見えざる手」を、欲に対する人間の本能を野放しすることで経済発展を導いたと解釈する人がいる。はたしてそれは正解か。世界史の観点では、アダムスミスは資本主義の効果とリスクを同時に警鐘していたと考えるのが妥当。欲だけを取り上げたのは、現在において、規制反対をする立場(米国の共和党)とウォール街の自己弁護のように感じる・・。
そんな中、市場原理には強欲による失敗を戒める自浄作用があった。しかし市場原理を止めるならバランスが必要。(規制との調和)米国はその実験段階だ。恐らく今度の選挙で次の方向性が見える。そして国家としてそのバランスの最先端は実は日本だろう。ノーベル賞にそんな賞があれば今の日本は本命である。
戦後日本は西洋から学び、逆に技術を輸出する国なった。今は水道などの社会のインフラを輸出している。もし世界がポスト市場原理の仕組みを求めるなら、日本は次この精神を輸出できる。ただどの道米国は受け入れないので(米国は苦しくても市場原理に戻るか、あるいはローマ帝国ような分裂と衰退か)米国の属国に甘んじている間は、その価値すら知らないままで終わるだろう・・。
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