花子とアンのシーン
「花子とアン」で、いいシーンがあった。
「花子とアン」で、いいシーンがあった。
子供向けラジオ番組を担当することになった花子が、番組の最後を「ごきげんよう」という言葉で終わらせたいと申し出る。以下がラジオ局の担当者との会話。
「貴方、秀和女学校のご出身だそうですね。うちの家内も秀和の出身で、ごきげんようは、朝から晩まで、耳にたこが出来るくらいまで聞かされます。・・」
「 あそこは家柄がいいお嬢様たちが集まる名門です。しかしあなたは給費生だったそうですね。貧しい家の出の貴方が、ことさらごきげんようという言葉を使いたがる気持ちはわかります。しかし、ごきげんようが似合う人間と、似合わない人間がいるのですよ。」
「 そうでしょうか。ごきげんようは、様々な祈りが込められた言葉だと思います・・ 。どうか、お健やかに、お幸せにお暮らしくださいという祈りです。
人生は上手く行く時ばかりではありません。病気になることもあるし、何をやっても上手く行かない時もあります。
健康な子も、病気の子も、大人たちも、どうかすべての人が、明日も元気に、無事に放送を聴けますように、祈りこめて放送を終わらせたいのです。どうかお願いします・・・ 」
NHKBS 女たちのシベリア抑留から、なぜBS?
そして一連の終戦記念日の特番で秀逸だったと思う「シベリア抑留女性」の話からは、番組の最後、言葉では現せない苦労をした斉藤治(ハル)さんが、こんな言葉を・・
「 でもこのごろ思うのだけど、人が経験できなかったことをして人生を終えるんだから、いろんな経験させてもらって、帰ってきてからは幸せに暮らして、幸せとどん底と両方が味わえて、人間としては、幸せだったなと思っています・・ 」
そろそろ「花子とアン」の舞台は、大正が終わり、軍国化の時代に入る。帰国してからも4~5年はソ連兵に追い回される悪夢にうなされたという斉藤さん。
「私たちの時代にいい経験をさせてもらったんだから、それで戦争はたくさん」といいながら、それでも自分の人生を振りかえり、人間として幸せだったという極み。この時の斉藤さんの微笑みは、二十歳の頃、お世話になったハンガリー人のメンターと同じだった・・
恐らく、どんなときも、「ごきげんよう」を実践されたのだろう。
恐らく、どんなときも、「ごきげんよう」を実践されたのだろう。
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