2008年3月22日土曜日

終末の始まり

人間が我慢をしなくなった・・。冷戦が終わり「重し」が取れた先進国の人間社会は、一部日本の様な例外を除いて皆が我慢しなくなったといってよい。その意味での米国の転換点を思い起こしてみた。そこで注目したのはTVだ。TV番組は世相や世情を先取りする事で視聴率を稼ぐ。よってここにヒントがあるのではないか。

この10年間米国で最も話題となったのはTV番組はここでも何度も紹介している「ソプラノス」である。CNBCは番組の中の場面を引用し、最終回の場面をクリントン夫妻は自分たちが演じ、そのパロデイーをインターネットで配信する事で選挙戦への弾みを狙った。そして、私自身もこの番組にハマった。この番組の特製スタジアムジャンパーをネットで購入した。40過ぎてそんなものを着ている日本人は恐らく私だけだろう。

しかし一体この番組の何がそこまで面白かったのだろう。振り返ると答えは一つ。主人公のイタリアンマフィアは家庭では普通の親父。娘の成長に目を細めながら出来の悪い息子に悩む。気性の激しい妻はいつもヒステリー。そして仕事はギャング。裏切りに悩み、カウンセリングに通いながら人を殺す。

主人公のキャラクターが、斬新でありながら庶民的なコントラストの妙が人気の秘訣なのは間違いない。しかし人気の理由はそれだけではなかったと考えている。まず一つに人間の劣化。真面目な番組は、人がもっと真面目だった時代に多かった。主人公のトニー ソプラノスは人殺しだ。仲間の裏切りも許さないが、自分にとって都合が悪い相手は誰でも殺す。要するに、家族という個人的、最少単位の社会では彼は我慢をする。
しかし逆に本来我慢をしければならないはずのソーシャルな社会で彼は我慢できないのである。要するに社会に対して甘え、自分の弱さを暴力で表現している。そしてそれが今は共感を呼ぶ時代になったのである。

最初はこの「劣化」はTVや映画の中だけだと考えた。しかし今の米国の現実は違う。一見世界の中の正義を言っている大統領候補者も、実は自己の利益で世界全体の正義を考えているに過ぎない(特にヒラリーとマケインの世代)。そしてWSをみると、高給を食んだ彼らは、自らの失態や失策を反省するよりも助けてもらう事が当然という有様である。故に本来規制当局の役割もあったはずのFED(中央銀行)の責任(グリーンスパン)は大きいが、今さらどうする事も出来ずに右往左往している。

私自身の劣化も含め、結局はここにソプラノスが受け入れられる土壌が出来ていたのである。

ところで、70年代は60年代の好調の後に起こった苦難だった。その意味では繁栄の90年代を振り返る今と同じだ。ただその時の米国人はまだ「耐える事」を知っていた。だからボルカーは短期金利を20%まで引き上げられたのだ。その時代の名作といえるTVが多かった。「大草原の小さな家」。最近DVDを購入した。子供にも見せたいのだが彼らはどうやっても興味を示さない。

モラルを問う力がなくなると、米国は自らのモラルの低下を他に許容させ、大混乱になった後で自身が暴力的な解決策で打開するといった事を考える可能性がある・・。ベアスターンの倒産などどうでもよい。どうみても世界は悪い方向に向かっていると思わざるを得ない・・。

2008年3月6日木曜日

オバマのすべて

選挙戦をカバーするマスコミは、マケイン&ヒラリーとオバマのスピーチを比べ、その内容の細部について同じ議論を繰り返している。だが、実は最大の違いは細部でなく、米国に対するコンセプトである。具体的にはヒラリーとマケインは、米国とそれ以外の利害関係を「自分と相手」という「二人称」のコンセプトで話すのに対し、オバマのスピーチのコンセプトには米国を三人称以上の関係の中でその利害を考えている事がよくわかる。即ち、ヒラリーとマケインにとって米国は、「AMERICA IS UNIVERSE」であるの対して、オバマは「AMERICA IS ONE OF THE MATTER OF UNIVERSE」という違いだ。

マケインとヒラリーの二人は、右と左の違いだけで、基本的にベービーブーマー以前の世代を代弁している。そしてオバマはそのより新しい世代から尊敬されている。以前も触れたが、米国のベービーブーマーは知る限り近代史で最もラッキーだった世代だ。なぜなら大戦を知らず、ベトナムも大学に行けば回避できた。そして不景気だった70年代も彼らはまだ若かったのでそれほど金に窮せず、そして子育ての時期にはレーガン以降の拡大期に郊外に家を持てば、引退時には2~3億の金融資産を持っている状態が普通の人でも十分可能だったのである。だとすればこの世代に必要なコンセプトはまさに「AMERICA IS UNIVERSE」そしてその中で相手を敵か味方かで選別していけばよかった。要するに指導者は優秀でも末端は単純でよかったのだ。

しかし今、次の大統領がマケイン、ヒラリー世代がら出るのか、或いはオバマにバトンが渡されるのか。衰退の現実の中、その意識がない米国が誰を選ぶかは米国の運命そのものである。そこでここで「オバマの全て」を日本のMEDIAに先駆けて紹介する。以下はMSNBCで特集された彼の人生である。

<オバマ物語>

「バラック」は共にハワイ大学の学生だったケニア出身の父と白人米国人女性の間に生まれた。その後オバマシニアは公費で博士号取得の為ハーバードへ留学。両親は程なく離婚した。結局バラックは父とは2歳で別れ、次に父と再会したのは彼が10歳の時だった。その後父は交通事故で亡くなったので、バラックには父との思い出は少なかった。しかし父の国で「バラック」とは「エレガント」を意味する言葉の通り、父は離れていても手紙で人間として一番大切な「勤勉」と「正義」を教え続け、また母も離婚してもオバマシニアがどれほど尊敬できる人だったかを常に聞かせたという・・。

時は戻り彼が6歳の時に母はインドネシア人実業家と再婚。一家はインドネシアに移住した。そこではバラックは様々な人種に触れ合う。小学校はインターナショナルな雰囲気、そして新しくできた親族には中国系カナダ人もいた。その間も母はオバマに英才教育を施し、朝4時にバラックを起こすと3時間の英語の勉強を徹底させてから仕事に出かけたという。その後バラックが9歳の時に再び両親が離婚、母とバラックは再びハワイへ戻った・・。

ハワイに戻ったバラックは名門私立に入学。当時の彼を知る日系人教師のMR.クスノキはバラックの突出した自己表現の才能に驚いたという。そしてバラックはバスケットボールでも才能を発揮、しかしその頃から彼は「一体自分が何物なのか」と悩み始めた。米国人、黒人、ただそれ以外にも多様なバックグランドど才能をもった彼は、様々な思想や宗教本を読みあさる一方で酒や薬にも手を出したという。そして苦悩はCAのオキシデント大に入ってからも続いた。ただ大学生活の過程で自分の中の一つの才能に気付き始めた。それは周りの人が自分の話を聞いてくれるという事であった・・。

この才能に気づいてから、彼はおぼろげながら自分の進むべき道を感じ始めた。そして2年後にはNYのコロンビア大に転入、そこで政治学を専攻した。この頃までには彼はドラックと決別し、そして卒業と同時にNYのコンサルタント会社でアナリストの職を得た。(このドキュメンタリーでは触れられていないが、個人的にはここで彼は市場原理の有効性を感じたと想像)しかし、彼の中に芽生えた本質とこの仕事は同化せず、ある日は彼は新聞に掲載されたシカゴの地域社会貢献員(COMMUNITY ORGANIZER)の仕事に注目。そしてインタビューでその仕事を得ると、そのまま荷物をま纏めシカゴへ車で旅だった。ただシカゴはバラックにとって初めての土地、そこで彼の人生に何が待っているかは判らなかったが、彼の政治家への第一歩は既に始まっていたのである・・。

ここまでの話からも彼は片親だったが貧しい境遇で育った訳ではない事が分かる。その彼にとって当時のシカゴのサウスサイドは想像を絶する世界だった。そして困窮の中で退廃したシカゴの黒人層は、同じ肌の色でも仲間とは言えない彼を拒絶した。しかしそれでも彼の努力は続いた。職のない若者に仕事を斡旋し、学校をやめてしまった子供の勉学への復帰を手伝った。しかしついに彼はある結論に到達する。それは草の根からの改革には限界があるという事だった。そして彼は将来の政治家としての自分を想定しながらハーバードの法科大学院へ進んだ。大学院で学ぶ傍ら彼は長期休暇ではシカゴでの活動を続けた。そして後に妻となるミッシェルと出会う・・。

そしてバラックはハーバードで輝かしい金字塔を打ち立てる。ハーバード法科大学院の最高峰の勲章であるHARVARD LAW REVIEWに、米国の歴史より長い歴史を持つ同大学の歴史上、黒人としては初めて彼が選ばれたのである。そしてこの勲章をもってすれば、そのままハーバードの教授や高等裁判官への道が開け、また民間の会社ならどこでも好きなところを選べたにもかかわらず彼はシカゴにCOMMUNITY ORGANIZERとして戻った。余談だがこの記述に誇張は全くない。なぜならこの話に登場するハーバードの同期生やシカゴのサウスサイドの下院議員は、報酬では比較にならない仕事を選んだ彼の意志を皆が驚嘆している・・。

その後彼はシカゴ大で教鞭をとりながら地道に活動を続け、丁度この頃ミッシェルと結婚、また母の死を経験した。そして遂に機は熟したと判断、彼は96年にイリノイの州議員選挙に挑戦した。しかし彼はそこで地区の民主党代表選考会で今と同じ古い世代からの抵抗を受けた。当初は代表に選んでもらえない苦境に陥ちたが、何とか本選に辿り着くと選挙では圧勝してIL州上院議員院として政治家の第一歩を踏みだした。ただ州議員としてのバラックは異質な存在だった。なぜなら当時から黒人の議員は多くいたが、バラックの様な煌びやか経歴を持った人は殆どいない。彼はローカル議員の抵抗にあった。そこで彼は早々に州から国家レベルへの挑戦を決断する。州議員になって僅か3年目の2001年、彼は現職の上院議員へ挑戦。しかし惨敗したのである・・。

その惨敗直後に9.11のテロがあり、州の議員の仲間にはビンラデインの「オサマ」と「オバマ」の発音が似ている事を笑う者もいた。そんな低次元にさすがのバラックも政治の世界への興味が失せ始めた。だがそこで運命の転機が来る。ブッシュが本来もっと叩かなければならないアフガニスタンからイラクへ舵を切ったのだ。これを見たバラックは街頭でブッシュ政権の画策を糾弾。イラク戦争を阻止する目標に向かって彼の政治へのエネルギーが復活したのである。流れというものは面白い。続いて予定されていなかった現職上院議員の引退に伴い再びバラックに上院議員へのチャンスが来た。

そして、民主党候補を決める予備選挙で二人の白人候補に圧勝すると、初めて「オバマ」という名前がイリノイを超えてワシントンにも聞こえる様になった。そして2004年、今につながるブームの初期には、自身が共和党候補との上院選を戦う身でありながら、大統領選挙を戦っていたケリーの応援として民主党党大会のゲストに呼ばれたのである。(因みにこの時のスピーチはその内容の素晴らしさに多くの若者が感銘を受けたといわれる。実は私の娘が通う高校はヒラリーの母校でありながら、皮肉な事にこのオバマの2004年のスピーチを教材に使っている。)そして2006年の中間選挙ではヒラリーをさしおいて彼に応援演説の依頼が殺到、民主党大逆転の原動力となった・・。
(以上 MSNBCのドキュメンタリーから)


MSNBCはヒラリーのドキュメンタリーも流した。そこでは彼女が史上初めての女性大統領にふさわしい人物である事が証明されている。またマケイン版では、アカデミックな背景はこの二人に劣るものの、彼が空軍パイロットとして2度の九死に一生の危機を乗り越えた凄さは証明されていた。要するに、今米国が大統領選挙で盛り上がっている理由は、史上初の黒人大統領か、女性の大統領が誕生するかという期待感だけが要因でない。これだけの資質を持った人がこの国にはいる事が実は重要なのだ。そしてそれは最後の最後に米国の希望につながるだろう・・。

2008年3月1日土曜日

ハンフリー小話

バーナンケの議会証言は、以前公式には「ハンフリーホーキンス」といった。これはその昔ハンフリーとホーキンスの両議員が、半年に一回のFED議長による景況感証言を提案した事に端をはっする。そしてそのハンフリーという人は、40年前、ニクソンと68年の大統領選挙を戦った民主党大統領候補者である・・。

この人の話を持ち出した背景は、70年代の再来が懸念される今、時局がどことなく60年代後半の米国の内情に似ていると感じたからだ。その前にまず先日の討論会をもって、事実上民主党の大統領選挙予備選は決着がついたと断言しよう。最早「通常の手段」ではヒラリーの逆転の可能性はない。ただ「通常の」手段でない場合どうなるか。結果的だが、68年の大統領選挙でハンフリー氏が民主党候補者に選ばれた背景は、通常の結果ではなかったのである・・。

話は前後する。その当時大統領だったのはリンドンジョンソンである。これも奇遇だが、彼はヒラリーの人生に多大な影響を与えた人だ。ヒラリーはそもそも共和党の一家に生まれたが、ジョンソンの政策に感化され民主党に代わった経緯を持つ(社会保障制度と健康保険)。そしてそのジョンソンは社会保障を充実させたにもかかわらず、不人気がたたって現職大統領でありながら再再選への立候補を途中で断念した。(ベトナム戦争とケネデイー暗殺疑惑で不人気だった彼は、NHの予備選に辛勝したもののウイスコンシンの結果に落胆したといわれている・・)

ただジョンソンが撤退した最大の理由はロバートケネデイーの台頭だった。JFKの悲劇の後、その意志をつぎ、人権運動でも人気の高かかった弟が大統領になるのはいかにも米国人好み。ただその展開を警戒する現職のジョンソンとロバートケネデイーの関係は常に不安定だった。そしてジョンソンが撤退し、立候補したロバートケネデイーは大票田のカリフォルニアで勝利した。これで舞台が整った思われた瞬間再び悲劇が起こる・・。

持論だが、70年代に米国が停滞した背景は、OILショックなどの経済的な要因だけが原因だったとは思えない。60年代後半は、反戦や人権運動等の社会変革運動が盛り上がった。そしてその原動力となったのは若者。その若者にとってロバートケネデイーは今回のオバマの様な希望の象徴だったはず。その彼が暗殺されてしまう米国社会の構造への嫌悪感。若者による現実回避の風潮は、間違いなく当時の米国の足を引っ張っただろう・・。

ヒラリーの後退とオバマの台頭はどことなくリンドンジョンソンとロバートケネデイーの関係を思わせる。だが同じ悲劇は困る。70年代はまだ米国が頂点を極める成長過程にあったが今は違う。そして紆余曲折の結果68年の大統領選に民主党として選ばれたのはハンフリー氏・・。ハンフリーホーキンスには実はそんな小話もあるのである・・。