2008年3月6日木曜日

オバマのすべて

選挙戦をカバーするマスコミは、マケイン&ヒラリーとオバマのスピーチを比べ、その内容の細部について同じ議論を繰り返している。だが、実は最大の違いは細部でなく、米国に対するコンセプトである。具体的にはヒラリーとマケインは、米国とそれ以外の利害関係を「自分と相手」という「二人称」のコンセプトで話すのに対し、オバマのスピーチのコンセプトには米国を三人称以上の関係の中でその利害を考えている事がよくわかる。即ち、ヒラリーとマケインにとって米国は、「AMERICA IS UNIVERSE」であるの対して、オバマは「AMERICA IS ONE OF THE MATTER OF UNIVERSE」という違いだ。

マケインとヒラリーの二人は、右と左の違いだけで、基本的にベービーブーマー以前の世代を代弁している。そしてオバマはそのより新しい世代から尊敬されている。以前も触れたが、米国のベービーブーマーは知る限り近代史で最もラッキーだった世代だ。なぜなら大戦を知らず、ベトナムも大学に行けば回避できた。そして不景気だった70年代も彼らはまだ若かったのでそれほど金に窮せず、そして子育ての時期にはレーガン以降の拡大期に郊外に家を持てば、引退時には2~3億の金融資産を持っている状態が普通の人でも十分可能だったのである。だとすればこの世代に必要なコンセプトはまさに「AMERICA IS UNIVERSE」そしてその中で相手を敵か味方かで選別していけばよかった。要するに指導者は優秀でも末端は単純でよかったのだ。

しかし今、次の大統領がマケイン、ヒラリー世代がら出るのか、或いはオバマにバトンが渡されるのか。衰退の現実の中、その意識がない米国が誰を選ぶかは米国の運命そのものである。そこでここで「オバマの全て」を日本のMEDIAに先駆けて紹介する。以下はMSNBCで特集された彼の人生である。

<オバマ物語>

「バラック」は共にハワイ大学の学生だったケニア出身の父と白人米国人女性の間に生まれた。その後オバマシニアは公費で博士号取得の為ハーバードへ留学。両親は程なく離婚した。結局バラックは父とは2歳で別れ、次に父と再会したのは彼が10歳の時だった。その後父は交通事故で亡くなったので、バラックには父との思い出は少なかった。しかし父の国で「バラック」とは「エレガント」を意味する言葉の通り、父は離れていても手紙で人間として一番大切な「勤勉」と「正義」を教え続け、また母も離婚してもオバマシニアがどれほど尊敬できる人だったかを常に聞かせたという・・。

時は戻り彼が6歳の時に母はインドネシア人実業家と再婚。一家はインドネシアに移住した。そこではバラックは様々な人種に触れ合う。小学校はインターナショナルな雰囲気、そして新しくできた親族には中国系カナダ人もいた。その間も母はオバマに英才教育を施し、朝4時にバラックを起こすと3時間の英語の勉強を徹底させてから仕事に出かけたという。その後バラックが9歳の時に再び両親が離婚、母とバラックは再びハワイへ戻った・・。

ハワイに戻ったバラックは名門私立に入学。当時の彼を知る日系人教師のMR.クスノキはバラックの突出した自己表現の才能に驚いたという。そしてバラックはバスケットボールでも才能を発揮、しかしその頃から彼は「一体自分が何物なのか」と悩み始めた。米国人、黒人、ただそれ以外にも多様なバックグランドど才能をもった彼は、様々な思想や宗教本を読みあさる一方で酒や薬にも手を出したという。そして苦悩はCAのオキシデント大に入ってからも続いた。ただ大学生活の過程で自分の中の一つの才能に気付き始めた。それは周りの人が自分の話を聞いてくれるという事であった・・。

この才能に気づいてから、彼はおぼろげながら自分の進むべき道を感じ始めた。そして2年後にはNYのコロンビア大に転入、そこで政治学を専攻した。この頃までには彼はドラックと決別し、そして卒業と同時にNYのコンサルタント会社でアナリストの職を得た。(このドキュメンタリーでは触れられていないが、個人的にはここで彼は市場原理の有効性を感じたと想像)しかし、彼の中に芽生えた本質とこの仕事は同化せず、ある日は彼は新聞に掲載されたシカゴの地域社会貢献員(COMMUNITY ORGANIZER)の仕事に注目。そしてインタビューでその仕事を得ると、そのまま荷物をま纏めシカゴへ車で旅だった。ただシカゴはバラックにとって初めての土地、そこで彼の人生に何が待っているかは判らなかったが、彼の政治家への第一歩は既に始まっていたのである・・。

ここまでの話からも彼は片親だったが貧しい境遇で育った訳ではない事が分かる。その彼にとって当時のシカゴのサウスサイドは想像を絶する世界だった。そして困窮の中で退廃したシカゴの黒人層は、同じ肌の色でも仲間とは言えない彼を拒絶した。しかしそれでも彼の努力は続いた。職のない若者に仕事を斡旋し、学校をやめてしまった子供の勉学への復帰を手伝った。しかしついに彼はある結論に到達する。それは草の根からの改革には限界があるという事だった。そして彼は将来の政治家としての自分を想定しながらハーバードの法科大学院へ進んだ。大学院で学ぶ傍ら彼は長期休暇ではシカゴでの活動を続けた。そして後に妻となるミッシェルと出会う・・。

そしてバラックはハーバードで輝かしい金字塔を打ち立てる。ハーバード法科大学院の最高峰の勲章であるHARVARD LAW REVIEWに、米国の歴史より長い歴史を持つ同大学の歴史上、黒人としては初めて彼が選ばれたのである。そしてこの勲章をもってすれば、そのままハーバードの教授や高等裁判官への道が開け、また民間の会社ならどこでも好きなところを選べたにもかかわらず彼はシカゴにCOMMUNITY ORGANIZERとして戻った。余談だがこの記述に誇張は全くない。なぜならこの話に登場するハーバードの同期生やシカゴのサウスサイドの下院議員は、報酬では比較にならない仕事を選んだ彼の意志を皆が驚嘆している・・。

その後彼はシカゴ大で教鞭をとりながら地道に活動を続け、丁度この頃ミッシェルと結婚、また母の死を経験した。そして遂に機は熟したと判断、彼は96年にイリノイの州議員選挙に挑戦した。しかし彼はそこで地区の民主党代表選考会で今と同じ古い世代からの抵抗を受けた。当初は代表に選んでもらえない苦境に陥ちたが、何とか本選に辿り着くと選挙では圧勝してIL州上院議員院として政治家の第一歩を踏みだした。ただ州議員としてのバラックは異質な存在だった。なぜなら当時から黒人の議員は多くいたが、バラックの様な煌びやか経歴を持った人は殆どいない。彼はローカル議員の抵抗にあった。そこで彼は早々に州から国家レベルへの挑戦を決断する。州議員になって僅か3年目の2001年、彼は現職の上院議員へ挑戦。しかし惨敗したのである・・。

その惨敗直後に9.11のテロがあり、州の議員の仲間にはビンラデインの「オサマ」と「オバマ」の発音が似ている事を笑う者もいた。そんな低次元にさすがのバラックも政治の世界への興味が失せ始めた。だがそこで運命の転機が来る。ブッシュが本来もっと叩かなければならないアフガニスタンからイラクへ舵を切ったのだ。これを見たバラックは街頭でブッシュ政権の画策を糾弾。イラク戦争を阻止する目標に向かって彼の政治へのエネルギーが復活したのである。流れというものは面白い。続いて予定されていなかった現職上院議員の引退に伴い再びバラックに上院議員へのチャンスが来た。

そして、民主党候補を決める予備選挙で二人の白人候補に圧勝すると、初めて「オバマ」という名前がイリノイを超えてワシントンにも聞こえる様になった。そして2004年、今につながるブームの初期には、自身が共和党候補との上院選を戦う身でありながら、大統領選挙を戦っていたケリーの応援として民主党党大会のゲストに呼ばれたのである。(因みにこの時のスピーチはその内容の素晴らしさに多くの若者が感銘を受けたといわれる。実は私の娘が通う高校はヒラリーの母校でありながら、皮肉な事にこのオバマの2004年のスピーチを教材に使っている。)そして2006年の中間選挙ではヒラリーをさしおいて彼に応援演説の依頼が殺到、民主党大逆転の原動力となった・・。
(以上 MSNBCのドキュメンタリーから)


MSNBCはヒラリーのドキュメンタリーも流した。そこでは彼女が史上初めての女性大統領にふさわしい人物である事が証明されている。またマケイン版では、アカデミックな背景はこの二人に劣るものの、彼が空軍パイロットとして2度の九死に一生の危機を乗り越えた凄さは証明されていた。要するに、今米国が大統領選挙で盛り上がっている理由は、史上初の黒人大統領か、女性の大統領が誕生するかという期待感だけが要因でない。これだけの資質を持った人がこの国にはいる事が実は重要なのだ。そしてそれは最後の最後に米国の希望につながるだろう・・。

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