2012年10月25日木曜日

お金で一番になる・・シカゴ大の教え



先日「外資系金融の終わり・・ではない」という話をした。今日の話題から、そんな時代を象徴する話を一つ。ヘッジファンドのジョンポールソンが、ニューヨークのセントラルパークに100ミリオンの寄付をした。個人による100ミリオンの寄付は例がなく、もしかしたら彼の銅像がセントラルパークのど真ん中に立つかもしれないという。

そういえば先ほどまで、バフェットがCNBCでいつものおとぼけトーク(ニコニコしながら本音と建前を軽妙に使い分ける)をしていた。バフェットが神格化されたのは2000年以降だが、80年代中ごろから一般にも名前を知られる存在だった。

その頃ウォール街には今のジェイミーダイモン(JP)やブランクファイン(GS)のような突出した名前は無かったと思う。CEOは有名人ではなく普通の社長だった。そこにMミルケンが登場。ヒラ社員が社長の数百倍の給料をもらう事態がおきた。ただ当時の米国は彼をスーパースターとして扱わず、(だから逮捕された)彼は凋落した。(ここが誰も逮捕されない今との違い)。

前後してヘッジファンドの時代が始まった。初期はソロスやジムロジャース、ロバートソンなど、今では長老的な人。その後第二世代としてベーコン(MOORE)やコーエン(CAC)グリフィン(CITADEL)等の活躍が始まり、LTCM以降は第三世代に移っていった。基本的に今の米国でヘッジファンド主役はこの第三世代である。

そんななかでポールソンは第二世代に属する。だが金融危機まで他の第二世代スーパースターに比べて無名だった。しかし今は最大規模のヘッジファンド。2008年の前例の無い暴落で儲け、翌年の前例の無い救済をでも儲けた。

なんと言おうと、資本主義では公共に大金を寄付することが出来る人はやはりスーパースター。アメリカでも賛否はあるだろうが、彼の銅像が出来ても当然。そして最終的にこの国はこの割りきりが出来るのが強みだとおもう。

過去に製造業が衰退し、廃墟となった街がギャンブルで復活した例が数多くある。同じ事を街でやるか国でやるかだけの違いだ(イリノイとインデイアナの境のゲイリーがその象徴。そこにミルケンのジャンク債とスチィーブウィン氏などの野望がマッチ・・)

一方日本では日銀は緩和を躊躇しているらしい。だが宇宙は広い事を改めて考えたい。個人的には日銀でも財務省でもどちらでもいいので、高橋洋一さんが言う様に、大量にマネーを刷って国民に均等に配ることを切に願う

アメリカのように金融システムだけを使うと(中央銀行から銀行へ下る信用創造へたトリクルダウン)成長が無いと途中で停滞が起こる。すると停滞はそこにモラルハザードをお起す。そして語るだけの人々に意味の無い機会を与える。だから直接国民にマネーを配る。

ではモラルはどうなるのか。そこは少しだけモラルハザードを全体でシェアするか、とんでもないモラルハザードを一部の金融システム関係者だけが許されるのかの違い。

バブル崩壊後の日本では、米国のような醜いモラルハザードが金融システム関係者(邦銀)におきにくい環境が続いている。よってシステムの頂点に立つ日銀は賛同しないだろう。では財務省にお願いしたい。そうなると政府紙幣。ソレを主張した高橋さんはスキャンダルに巻き込まれた。

しかし160万人子供が貧困層に落ちたという日本は躊躇している場合ではない。アメリカと同じようにマネーを刷る。だが平等を維持するため、直接配る。ばら撒きである。ここまで生活保護を受ける人が増えたなら、遠回りするより早く生まれ変わることも必要だろう。

バーナンキ議長は別名「ばら撒きヘリコプター」と呼ばれる。しかし直接米国民に配らず、FEDを頂点とする金融システムに流している。だから問題が生まれ、不満が生まれる。

多くはソレが間違っていると指摘する。実は自分もその一人だった。だがばら撒きでも、日本は独自のばら撒きをする。正論を言う政治家が国が救えるかどうか。過去のピンチでどんな人が国を救ったかもう一度考えるべき。

そして科学者ファンドを作り、徹底的に投資すればよい。もちろん山中教授のような人ばかりではなく偽者もいる。だがそんなことを気にしていては始まらない。そもそも日本人はこんなに金メダルとノーベル賞を欲しがる国民ではないか。やはりそこは遅れたアジアを引きずっているのだ。

ならば参考になるのはシカゴ大学。シカゴ大学の発祥はハーバードから200年も遅れた。オックスブリッジからは700年も遅れた。だが今ノーベル賞の獲得はダントツである。これはロックフェラーが躊躇せず、資財を投じた結果であることをアメリカ人は知っている。

お金そのものを批判しても始まらないことにやっと気づいた。学問はスタートが遅れても十分なお金が投資されれば一番になれる・・。これがシカゴ大学に無縁の自分でもシカゴ大学から教わったこと。一番を否定するのは、お金の量の議論の前に、実はお金の使い方をしらなかっただけなのかもしれない・・。

ただこれと金融市場がどうなるかは別。社会が自浄作用としての市場原理を止めても、最終的にお金そのものに自浄作用があることに気づいた。麻薬もウイルスも人を殺した後で役割を終わるの似ている。多すぎると最後は自分で役割を失う。ただソレを経験するまえに「冷えガエル」で死んでしまっては意味が無い・・。




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