2007年11月14日水曜日

私の履歴書、懐かしきバブル

この話は以前したが、もう一度回顧したい・・。

バブルが華やかし85年、東京のホテルオークラの「平安の間」には人工の川が造られた。カーペットの上に砂利を引き、ポンプで水流を造って周りには本物の庭石が運び込まれた。そして見事な氷の彫刻が何体も運び込まれ、通常の宴会ではあまり入らない「久兵衛」や「桃花林」の屋台が何台も運び込まれた。

いったい何が始まるのか?当時東京サミットの準備で英語が出来るサービス経験者を囲い込んでいた同ホテルに、偶々職を得ていた自分には新鮮な驚きだった。そして宴会直前、集まった配膳のプロ達や派手な衣装を着たバンケットの女性達にむかい「これからホテルオークラ史上で最高額の宴会が始まる」とホテル側のベテラン黒服マネージャーは気合を入れていた。

個人的には宴会の主役に興味はなかったが、宴会の後の片付けで、ホテルの目を盗んで料理の味見をしていた経験からして、その日の料理は自分には特別な興奮だった・・。

宴会の雰囲気は異常だった。日本仏料理界の大御所ムッシュ小野が会場で料理全般に目を光らせる中、マッカーサーに対して財閥解体などの影のアドバイザーだったと言われる野田岩次郎ホテルオークラ名誉会長がまでが登場していた。(私の履歴書“野田岩次郎から”)。

宴会は、当時世界的に隆盛を極めた証券会社、野村証券の「大」田淵、「小」田淵による「会長、社長」同時就任パーテイーだった・・。

昔話はさておき、日経新聞では今「私の履歴書」をその田淵前会長が書いている。証券会社時代に感じた組織としての野村の強さは今でも新鮮だが事11日付の項は非常に面白い。なぜならそこには40年不況時の野村の話が出ているからだ。「売れるものは全て売れ」と言う決断の元、市場を無視して野村は売り続けた。そして、評価が下がりきってしまった債券は、第3者に抱えてもらったなどと田淵氏は暴露している・・。

この時の野村の行動はほめられるものではないが、それが今の野村の強さにつながった。一方、戦後日本の証券市場を支えた山一証券は、トップの義務にすでに疲弊しており、この不況で倒れてしまったのは有名である。

偶然今ウォール街でではジェンタイル的赤と、クラウド的青の「血の色」の差が今回の金融危機で浮き彫りになっている。(前者はモルガンなどの伝統的米国の金融の血統、後者はユダヤ的な金融機関)その折に、大物と言われた田淵氏が私の履歴書に登場したのは何かの因果だろうか。商品と場所の違いこそあれ、そこで紹介されている逸話は、そこで生き残る者とそうでない者との差を浮き彫りにしている事が興味深い・・。

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