ハーバード大学には行ったことがないのですが、そこでは日本にもファンが多いマイケル・サンデル教授が哲学を教える構内で、リバタリン経済学者としてジェフリー・マイロン教授は麻薬合法化の経済効果を教えています。
この多様性がハーバード大学の凄さの一面と想像します。言い換えると、ここではフィロソフィー(哲学)と、ストラテジー(戦略)が、学問として明確に分かれているということだと思います。
人間社会の歴史を振り返ると、哲学をおろそかにすればかならず報いがくる。しかし豊かさへの欲望などの動機がストラテジーを生み(資本主義のメカニズム)、結果的に進化、発展にもつながってきました。
米国は2006年から、過去80年周期で繰り返したサイクルの第4コーナーに入ったという意見があります。過去の第4コーナーでは、独立戦争 南北戦争 第二次世界大戦と動乱が起きました。そしてその危機を乗り越えて新しい周期に入りました。
日本も近代の大変革を維新と敗戦とするなら、起点になった黒船来航と満州事変の開きは約80年です。そして現在は敗戦から70年の大台が見えてきています。やはり日本も大変な時期を迎えたと思います。
自分で達成した明治維新と、米国の力の前に変革を受け入れた敗戦ではその後の運命が違いました。ところが敗戦後の日本は不幸ではなかった。奇跡といわれた経済成長を成し遂げ概ね幸福だった。この事実は今の日本人の感覚を支配しています。しかしそこでは戦後の世界の潮流が日本に有利に働いたことを考慮する必要があります。これまでの日米関係は其の潮流が基盤でした。
本来は其の潮流の変化の可能性を踏まえ、国策の議論がなされなければならないのですが、総選挙に臨む政治家の主張は、現象にとらわれ、世界の潮流に対するストラテジーの吟味の甘さが目立ちます。何かにはストラテジーとフィロソフィーの混同も見受けられます。
これではしたたかな外国勢に囲まれた今の日本の危機の本質を国民に理解させることは無理でしょう。ただ歴史の力は巨大です。たとえ本質を理解しても、何かが変わるかどうかは判りません。それでもイメージを促し、準備をしておくことは重要です。そこで最後の寄稿となる今回は、中世以降、フィロソフィーを重視した中国と、ストラテジーを積み重ねた結果、変化した英米の比較をしてみたいと思います。
<ヘンリー8世が英国を変えた>
まず国王がローマ法王の傘下にあった頃の欧州の冴えない均衡を打ち破ったのは、16世紀に英国に登場したヘンリー8世だったと考えます。彼の登場によって英国は単独でストラテジー国家へ変貌し、一方で欧州は現在につながるウエストファリア条約へ次第に傾いていきました。
そもそも均衡を崩したヘンリー8世の動機は不純でした。愛人ができてカソリックで認められないスペイン王女との離婚をするため、国王は英国をローマ教皇の傘下から独立させるという行動に出ます。
これはスペインやフランスなど、当時欧州では英国より格上の国からみれば暴挙でした。怒ったローマ教皇はヘンリー8世を懲らしめるため、国王を破門、フランス国王に英国を攻撃するように命じます。しかしヘンリー8世は動じず、さっさと英国国教会を独立させてしまいました。
一旦カトリックの強大な縛りが緩むと、いろんなものが動き出します。まずフランスやドイツで生まれた新しい宗教が、新しい学問といっしょに英国に入ってきました。そしてそれまでのタリー(木片)を使った国王によるマネーの管理も、民間のゴールドスミスなどに主役が移っていきました。
この過程で信用創造という現在の金融のコンセプトが生まれます。加えて戦争には膨大なマネーが必要です。国王による国家統治の威厳を利用する形で、民間のマネー支配者が中央銀行のシステムを構築していきました。これが今の形態の世界最初の中央銀行、バンクオブイングランドです。
このように、ヘンリー8世は浮気という欲望を正当化するためにいろんなストラテジーを考えました。これで均衡が崩れたのです。ただ反対する人もいました。有名なのは「ユートピア」を書いたトマス・モアです。国王は友人でもあった彼を、有能な官吏だったトマス・クロムウェルの進言で殺してしまいます。(参考:1966年アカデミー賞受賞作"わが命尽きるとも")
こうしてトマス・モアに代わって国王の寵愛を受けたクロムウェルでしたが、膨大なカトリック教会の財産を没収して国王の財政基盤を確立に多大な貢献をしたにもかかわらず、その大出世を貴族に疎まれ、嵌められて、何度も斧を振り下ろされるというむごい殺され方で断頭台の露に消えました。
この時もクロムウェルを見捨てたヘンリー8世ですが、愛人を新しい王妃にするために要らなくなった王妃を次々に断頭台に送りました。そしてその子供であるメアリとエリザベスは、ヘンリー8世没後、母親の恨みを引き継いだ統治をしました。
メアリーはスペインと関係を修復し、カソリック回帰で新教(主にピューリタン)を弾圧し、その結果、清教徒が米国大陸を目指し、今のアメリカの基礎が生まれました。一方腹違いの妹エリザベスは、メアリーの死後、姉とは逆に多様性を重視しました。目的のために手段を選ばないところは父親からチューダー王朝のDNAを強く引き継いだともいえます。
エリザベスは植民地からの銀で繁栄するスペインの船を襲う海賊を影で支援していました。そして怒りが頂点に達したフェリペ2世が無敵艦隊を英国に向けると、中世的貴族的戦いを想定していた無敵艦隊に対し、エリザベスは海賊戦術用いて圧勝しました(アルマダの海戦)。
ここで英国が19世のビクトリア時代に頂点を迎える基礎が固まるわけですが、後に国王を殺して議会制民主政治の指導者になったとされるオリバー・クロムウェルは、ヘンリー8世に仕えて大改革を推進しながら、恨まれ、見捨てられ、無残に斬首されながら、シェークスピアのせい?で未だにあまり好かれていないトマス・クロムウェルの末裔です。
このようにいち早く議会政治を導入し、産業革命から世界の頂点に立った英国の起点は、その動機は何であれ、フィロソフィーを支配した宗教の縛りを打ち破ったヘンリー8世だったと考えています。
< なぜ米国が英国に取って代わったか >
世界最大手ファンドの一角であるPIMCO社のストラテジスト、トニー・クレセンジ氏は、400年前まで欧州と中国の豊かさは同じだった。しかしその後の資本主義は欧米に富をもたらしたが、15%が富を独占する一方、85%は貧困に追いやられ格差は拡大した。その格差が縮小に向かい始めたのは1950年代以降だといっています。
この分析はすばらしいものです。スペインやポルトガルは、英国よりも早く海を支配して植民地を手に入れました。しかし彼らはカトリック国家の宗主国としてキリスト教を現地に広めることをしましたが、植民地から銀を搾取し、それを本国が散在したら終わってしまいました。
一方で英国は植民地に「経営」を持ち込みました。彼らに物を売りつけ本国の産業を興すと同時に、植民地では消費財と輸出品目に課税したのです。これは植民地に投資をする一方、植民地との格差を利用した経営です。米国も最初はこの英国の敷いた資本主義の中でもがいていました。
しかし建国の父たちが独立を果たすと、勤勉であり、貯蓄をおもじんるカルバン派プロテスタントの米国人たちは、英国よりもダイナミックな資本主義を起こしました。(バチカンから独立した英国国教会は、実はカソリックからそれほど変わっていない)これを欧州からみていたのがマックスウェーバーです。
ただその格差は尋常ではありませんでした。米国の資本主義は南北戦争での鉄道のバンダービルドから、その後のロックフェラーとカーネギーに、JPモルガンが絡む三つ巴の競争を軸に一気に英国を抜き去ったといえます。
どっちが米国一の大金持ちになるか。先行したロックフェラーを猛追するカーネギー。彼らに共通するのは発明ではなく、リスクを恐れず私財を投入してモノポリーを構築するスピードでした。(オイルの大量採掘技術はテキサスでハミル兄弟が生み出し、鉄鋼の大量生産技術は英国にあったもの)そうなると決め手は労使関係です。どちらが安い賃金で労働力をより酷使できるか。この競争に割って入ったのがJPモルガンでした。
英国的金融カルテルを理想とする偉大な父の影で、若い頃のJPモルガンはくすぶっていました。しかし自分もいずれロックフェラーやカーネギーと同格になりたいと考えた彼は、リスク嫌いの父親がM&Aの仲介で満足したのに対し、世の中を変える技術革新への投資が彼らと肩を並べる条件と考えました。そこであのエジソンに巨額投資をします。(現在価値で80ミリオン)
エジソンは研究室で直流白熱球を研究していましたが、ロックフェラーのオイルビジネスの根幹であるオイルランプ全盛の時代、JPモルガンの画策するオイルから電気へのエネルギー大転換は、ロックフェラーにとって脅威となりました。しかたなくロックフェラーはガソリンなどの新商品の精製に傾斜していきます。
結果的にこれは自動車の時代を迎え、正しい選択だったことになるのですが、一方JPモルガンの思惑は簡単には実現しませんでした。ライバルのウエススティンハウスが、エジソンの部下だったステラー氏を発掘し、直流ではなく交流電流でエジソンとJPモルガンに挑んできました。
JPモルガンは本業の金融市場を使って対抗しました。あえて株式市場に悪い噂を流し、資本力に劣るウエスティンハウスを兵糧攻めにしたのです。こんなことに巻き込まれた株式市場も大変ですが、最後はステラの交流電流電球がエジソンの直流を駆逐しました。
その後JPモルガンはエジソンをクビにして会社を完全に自分のものにします。それが現在のジェネラルエレクトリックです。このGEとウエスティンハウスの競争は現在のNBCとCBSなど100年間続きました。そして、金融市場を牛耳ることで、カーネギーやロックフェラーとは別の力を得たJPモルガンは異次元に踏み出しました。まず富でロックフェラーを上回ることが悲願だったカーネギーに買収話を持ちかけます。
迷ったカーネギーは、半信半疑で当時としては天文学的数字だった480ミリオンというオファーをします。JPモルガンはO.K.と一言いって返しました。こうしてできたのがUSスチールです。USスチールは結果的に粗100年に渡り、モノポリー状態を維持しました。
当時の480ミリオンは現在価値で300ビリオンダラーです。(24兆円)。カーネギーはもし480ミリオンではなく、580ミリオンだったらあなたは買ったのかとJPモルガンに問いかけました。JPモルガンはそれには答えず、これで貴方はロックフェラーを抜いて、米国最大の金持ちになったと答えたといわれています。
ところで、この3人が手を組んだのが1896年の大統領選挙でした。格差が広がり、庶民の怒りを背景に民主党のビル・ジェニングス候補は名指しでロックフェラーやカーネギーを非難しました。そこでこの3人が打ち立てたのが共和党のマッキンリー氏でした。当時3人は一人当たり現在価値で30ミリオンを拠出しマッキンリーを勝利に導きました。
おもしろいのは、この頃に共和党にはNY州知事だったセオドア・ルーズベルトが、リベラル層からも支持を集め、大統領への期待があったことです。ただもし彼が大統領になってしまうと、ビッグビジネスに対して反旗を翻す可能性を感じた3人は、彼を副大統領候補にし、操り人形であるマッキンリーを大統領にすることにしたのでした。
ところが、ビッグビジネスの言いなりとなったマッキンリーは、JPモルガンの買収によってよって整理された会社を解雇された労働者によって暗殺されます。そして大統領になったセオドア・ルーズベルトは一気にビッグビジネスの解体に動き出します。3人の画策は裏目に出たのです。
この頃、アメリカの進歩的資本主義が、英国の格差資本主義を超えたと思います。その象徴として登場したのがヘンリーフォードです。
それまでの米国の資本主義は、前述のビッグビジネスの3人に代表される資本家のためのもの。モノポリーが当たり前で、自動車産業も、モノポリーを守るために協会がすべてを仕切っていました。フォードはコストが安く庶民にも手が届きそうな車を開発し、協会に販売許可を願い出たのですが協会は許しませんでした。そこでフォードはレースに出ます。レースに勝って車の性能を紹介すると同時に、協会からの支援が無くても事業を継続する資金を得るためでした。
フォードはレースに勝ちました。そして裁判所はフォードが自分で車を製造販売する権利を認めました。ここから米国は新しい時代に入ります。労働者の権利は劇的に改善され、フォードが始めた週休二日制、8時間労働、最低賃金法がスタンダードになっていきます。そしてミシガン湖の周りには労働者が集まり中間層が生まれていきました。
後に人々はこれを第二次産業革命とし、ヘンリーフォードをその象徴として特別に評価にしました。ただしアメリカの資本主義のメカニズムが本領発揮したのはこの後です。
ギルト時代が終り、ルーズベルトを副大統領にした画策が裏目にでてスタンダードオイルは解体されたのですが、6社に分解された会社でも株主だったロックフェラーの総資産は、フォードの車が売れ、家庭にGEの電気が届き、米国の中間層が豊かさを実感し始めたときに頂点を迎えました。
その金額はスタンダードオイルの株を単体で持っていた頃をはるかに超え、660ミリオンに達しました。それは現在価値で415ビリオンダラー(33兆円)です。
< なぜ中国は発展からとりのこされたのか>
では英国や米国がこのような変貌をとげていたころ、中国は一体何をしていたのでしょう。前述のクレセンジ氏の指摘した400年前に戻るなら、中国は漢民族による「明」が終り、満州人による「清」に移行する頃だと思います。この頃までは、たしかに中国の豊かさは欧州と比べて全く引けをとっていなかったと思います。それどころかそれ以前はどう見ても中国は世界で最も先進国でした。
その中国がなぜ遅れをとったかというテーマで欧米人が研究したものに「高水準均衡説」があります。簡単にいうと、中国社会は放伐を繰り返しながら、清の時代には庶民までがある程度の幸福感に浸ってしまい、社会が高水準均衡のわなにはまった状態になったことをさします。
確かに康熙帝から乾隆帝までの3代150年間は、人々が豊かになった証拠として人口が4億人に到達しました。これは当時の欧州全体の人口より多かったといわれます。
それまで何回が他民族の支配を受けた中国では漢民族はすぐに蜂起しました。しかし清朝では近代になり日本や欧米に侵食され、孫文が登場するまで起きませんでした。これは清の治世をほめるべきか、漢民族が衰えたのか、悩ましいところです。
そして別の意見として、儒教という哲学の存在を示唆する人がいます。本来中国には老荘思想の道教と、同時期に孔子が広めた儒教が混在していたはずです。ところが、途中から社会の安定に役立つ儒教の思想が強くなり、道教が持っていた自然科学への探究心が薄れてしまったというのです。
今の日本が注目すべ点は、国家は他国の支配に満足すると、崩壊するまで自分で実験はしないというこの頃の中国人の教えです。バブルが崩壊して20年、今の日本は何事においても実験をしなくなったように感じます。民主党が一度失敗するとすぐ見捨てる。経済も原則を超えた話をすると、日本人は誰も近づかない。(反応したのは外人)結局何もしなくなった。それは追い込まれていない証拠でもありますが、均衡社会の特徴が出ているのではないでしょうか。
ここにヘンリー8世という異常な人物による英国の突然変異や、米国の強欲ギルト社会が織り成した資本主義のダイナミズムとの違いを感じます。
更に、中国は3000年の西欧との貿易の駆け引きで、前半の成功体験から、後半に決定的ミスをした証拠があります。これはこれからTPPに臨む日本にとっても参考になる事例です。
そもそも中国の古代文明は4大文明で孤立期間がもっとも長かったわけですが、交わる必要が無かったともいえます。ミソポタミアで穀物は小麦しかなかった時代、中国では米など様々な穀物が食料になっていました。
武器の発展も、ヒッタイト人がはじめて鉄の武器を作り、後にローマ軍はその武器の使い方を極めたとされます。しかし秦の始皇帝が中国を統一したころの中国は、鋳造技術が発展し、鉄の形を自由自在に変えられました。
秦の武器は圧倒的な飛距離と殺傷力を備えた鉄製のボーガンでした。弓矢など歯が立ちません。もしこの頃にローマと戦っていたららどうなったでしょう。それは300年後、ゲルマン人が西ローマに移動したのは、西域のアジア系遊牧民(フン族)がゲルマン人を襲って彼らが居場所を失ったからだという説が有力です。
恐らくこの頃は中国は欧州よりも武器は進んでいたでしょう。ローマは5賢帝の頃から中国(後漢)に盛んに使者を送りますが、その最大の目的だったシルクの作り方を中国はぜったいに教えませんでした。
この頃の西洋ではシルクは植物、木になっていると考えられていました。シルクロードができ、中国にシルクを買いに着た商人は密かにシルクの木を探していたといわれます。そんな西欧人をみてきっと歴代の中国王朝は高笑いをしたことでしょう。
こうして中国は3000年間貿易のドル箱であるシルクの秘密を守ったのですが、その一方で紙や火薬、羅針盤、印刷といった学問や産業発展の基盤になる最先端の技術を、清朝のころまでには西欧に渡してしまいました。今から振り返ると、どちらを守るべきだったのでしょう。TPPでは日本に同じ過ちを犯してほしくないところです。
< 日本の課題、フィロソフィーとストラテジーの両立 >
日本の歴史をざっと見ると、1000年間は中国に教わり、明治維新前後の50年は英国から教わり、そして戦後から現在の70年間は米国から教わっています。しかしずっと主張していますが、日本のマスコミは中国を新興国と呼び続けています。これは知性のなさの証明でもあり、日本の戦略の無さの証明でもあります。
中国経済が台頭してから10年。経済の軸を中国に移しながら、実は米国しかみていないのは米国からでもよくわかりました。米国の民主党政権はしっかり中国の変化に対応しているのに、自信をつける中国人に対して隣の日本は何も配慮しない。全くナンセンス。尖閣は起こるべくしておきましたが、別のやり方もあったはずです。
ここからはメデイアの役割はきわめて重要になると思います。現象面の解説だけで終わるのは極めて危険です。読売新聞は他が有料化したWEBを今も無料で行っている点はさすがですが、中国に対する日本人の親近感の減退をことさら強調している。これは危険です。メデイアなら、そうならないように知恵をしぼるべきところです。
言うまでも無く中国と米国にはさまれた日本は重要な位置にあります。有利でもありピンチでもある。もし自分の足で立てば、周りを見て自由な自分の手を使って立ち回れる。しかしもし米国にしがみ付くと手は使えない。ならば周りを見る余裕など生まれないでしょう。
世界で様々な現象が起こる中、一体今は世界史の中でどんな局面なのでしょう。現象と本質は反対語ですが、米国のような多様性の妙を持たず、むしろ均衡の罠に近い今の日本では、こと更指導者が本質を客観的に分析する必要があります。
日本国民の多くは1000年も教わった中国からの儒教的精神をベースに、近代は英米のシステムをただ乗りしたことをあまり意識していません。ですから欧米の経済のシステムが理想と考える一方、そのシステムがどのような経緯で今日があるかには興味はない。ところが、フィロソフィーではここまで影響を受けた中国を新興国と呼んでも違和感を覚えない。
日本がこの特性を維持したいなら、相当のしたたかさが必要です。個人的にはなんとしてもそれを成し遂げるべきとだと思います。そうすれば19世紀が英国、20世紀が米国が言われる中で、21世紀は中国ではなく日本の世紀になるかもしれない。
それは日本が覇権を握るということではなく、米中の間でしっかりと自立し、アジアを要らぬ混乱からも守るという意味です。日本はアジアにかなりの貢献をしていますが、ここからの国家のしたたかさは、ぶれないフィロソフィーと、柔軟なストラテジーの両立。その一歩はその二つを混同しないことだとおもいます。