2012年11月22日木曜日

 黄門様よりも鬼平 マネー原理プロから



まず参考までに、WIKIより長谷川宣以(平蔵)の抜粋した。(赤字に注目)

延享2年(1745年)[1]、400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれる。母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には某氏と記されている[5]明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治御目見えし、長谷川家の家督相続人となる。時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英[6]の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。
青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある[7]。父の宣雄は火付盗賊改役を経て安永元年(1772年)10月に京都西町奉行の役に付き、宣以も妻子と共に京都に赴く。安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去。宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」[8]によると豪語して江戸に戻り、同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となった。
父がためた金も使い果たし、遊郭へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられる宣以であるが、安永3年(1774年)、31歳で江戸城西の丸御書院番士(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、翌年には西の丸仮御進物番として田沼意次へ届けられたいわゆる賄賂の係となり、[9]天明4年(1784年)、39歳で西の丸御書院番御徒頭[10]、天明6年(1786年)、41歳で番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられ、順調に出世していった。火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)9月9日、42歳の時である。
寛政の改革人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかし、この時上司である老中首座松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。辣腕とも言えなくは無いが、当時の道徳的には認められるようなものではなく(現代においては、役人が国家予算を相場投機で殖やすのは、道徳のみならず法的に認められるものではないが)、またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものであり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川(なにがし)」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。また前述のように清廉潔白というわけでもなかったので『よしの冊子』(定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書)によると「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。
寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲とも書かれている)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。
寛政3年5月3日1791年6月4日)、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧逮捕、斬首した。逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している。[11]
非常に有能だが幕閣(特に前述の定信)や同僚からはあまり信頼されていなかったようで出世はままならなかったが、的確で人情味溢れる仕事振りに庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。宣以も出世できないことを愚痴っていることもあったが「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという。
寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。死の直前、11代将軍・家斉から懇ろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を下賜されている。東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)。長谷川家の家督は嫡子長谷川宣義が継いだ。
なお、長谷川宣以の住居跡には数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。
 

政治を引退する与謝野さんがNHKのインタビューに出ていた。手術後で痛々しいかった。それでも財政問題を今警告しなければならないという政治家の信念、迫力があった。

10年以上TEA PARTY( 茶会党 世界で一番財政規律を重視)を追いかけ、その主張が正しいとずっと考えて来た自分が、急に「超法規的」「邪道」何でもいい、今は何かすべきと考えるようになった。しかしその理由が自分で説明できなかった。
 
それが与謝野さんの主張を聞いて整理できた。与謝野さんは2020年に日本は大変な事になるといった。また日本はソレに気づいていないとも言った。その瞬間判った。与謝野さん、あなたは正しい。だが時間軸が間違っている・・。


この国でその道に生きた者として、与謝野さんや野田首相、財務省、あるいは日銀・・が感じず、自分が感じている事がある。それは、イメージが実現するスピードが過去とは違うという事。スピードはあっという間であり、そのマグニチュードは破壊的だ。これはリーマンショック前後の激変を最前線で肌で感じてきた。
 
断言しよう。日本に2020年まで時間はない。日本の勘違いは日本の事ではなく、世界が待ってくれないという事。次の戦争では人を直接殺すドンパチは考えにくい。しかし経済で負ければ人は死ぬ。
 
あっちこっちでそれぞれのスタンダード化が始まる。国家資本主義は当然だが、日本は相手を倒す必要はないが、生き残るには今のままでは駄目だ。これまでの周回遅れの妙は、4THターニングではよほど運がなければ成立しない。


ところで安倍さんに入れ知恵をしているのは誰だ。米国の著名ヘッジファンドのカイルバス氏は、何年も円債をショートにして、それ以外の輝かしい経歴に傷をつけてしまった。恐らく今彼は安倍さんの登場を心待ちにしているだろう。(安倍さんの言うとおりのことがおきれば金利が上がり、最初はかなりの円安になる。そうするとカイルバス氏らは儲かる)
 
まさかそんな米国のヘッジファンドに繋がった誰かの進言を真に受けているとは思わないが。いずれにしても、良い人がいつも正しい事をするとは限らない。一方で悪い奴が良いことをしないとも限らない。昔振り込め詐欺で実績を挙げた奴を、国策のメンバーに取りこくむぐらいのことをしなければゴールマンサックスに勝てないといった。恐らくこんなことを示唆するのは、官僚としての実績と、歴史作家としてロマンも併せ持つS氏あたりだろうか。


ならば最後に一つ進言。単に金融緩和をしても駄目。日銀からメガバンク、地銀その他への金融システムに資金を流しても、結局今のカルチャーでは国債に向かう。ソレを刷るぐらいなら国民全員にお金を均等に配った方がよい。どちらにせよ、いずれモラルでは国は救えない局面がくる。
 
安倍さんに入れ知恵した人は、米国に精通し、売られた喧嘩を買う姿勢が見える。だが米国と日本の違いはここからの多様性。まず中央銀行。
 
米国人は今は株を昔のようには買わない。歳には勝てない。だからFRB(中央銀行)傘下のNY連銀は、ウォール街を使いQE(量的緩和)の金をそのまま金融機関からスムーズに株式市場に流れるシステムを作った。ヘッジファンドなどの市場参加者は素直に従った。だから金融資産インフレが起こり、曲がりなりにも今米国は生きている。


ところが日銀にFEDのような多様性はない。FRBにはタカ派もいて一見バランスを取っている。日本では報道されないジャクソンホール(毎年一回米国で行われる世界の中央銀行マン総会)の写真をみると、日銀の白川さんは、原則主義者だったホーニグ前カンザス連銀総裁と一緒にいる写真が多かった。(考えが似ているからだろう)
 
バーナンキ総裁はそんな硬軟のメンバーを窺いながら、実際のオペレーションは民間企業であるNY連銀にやらせている。トップはゴールマン出身のビルダッドレー氏。


上級国家公務員のバーナンキFRB総裁の給料が10万ドル台後半。一方で傘下のNY連銀のビルダッドレー総裁の給料は40万ドルだ。更に、NY連銀でウォール街と直接取引を行う若いトレーダーの大半はバーナンキ総裁より高給取りだ。
 
こんな事は日本の組織ではありえない。これが可能なのはFRBが公的業務を民間組織が行う柔軟性と多様性だ。昔はこの多様性を不完全で悪癖の元凶と考えた。しかし今、金融ストラテジーを中心にした国家間の戦争になると、これが政策の柔軟性にも見えてきた。ここが自分自身の変化でもある。


火事場、鉄火場ではいい人も悪い人も関係ない。救った人(博打に)勝ったが英雄だ。黄門様も大岡越前も実在の人物だが、実在の長谷川平蔵は元悪人を含めた人の使い方が本当に絶妙だったらしい。ソレは彼が火付け盗賊改めだったからだろう。火事場 鉄火場は平和な日本が感じるほど先の話ではない。


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