2012年2月29日水曜日

危機管理の本質


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原発事故直後の官邸の様子をNHKが報道している。やはり日本は変だ。民間の知識者が行った聞き取り作業は無駄ではないが、日本はこの期に及んで世界に恥の上塗りをする必要はない。

本来反省は政権内で厳粛にすればよいものだ。そもそも平時に党内の確執を曝け出している日本に常在戦場の緊張はないが、重要会議で議事録がなかった事と、このような危機での国家の参謀室の混乱を晒す事と、混同しているのではないか。

ただ敢えて恥を世界に晒し、国民の意識が変わり、日本が生まれ変わるというなら話は別。だが野党の反応は「管元総理は後進国なら死刑だ」などと、前提が違う低レベルなレトリックを主張する自民党議員がいるだけでは意味がない。危機管理の本質は何か、それを議論する報道は今のところ聞こえてこない。

こちらで震災後の危機管理の議論を聞いていると、東電を悪者にする一方、優先順位が、被災地の個人か、国家の安全保障なのか。混同されている印象だ。

建国以来ずっと戦時国家の米国の危機管理は、国家が個人に優先される。つまり、情報開示の原則を言いながらも、個人の知る権利が国家のかじ取り機能をオーバーライドすることはあり得ない。(メディアのすっぱ抜き別だが、あのWIKILEAKの創設者でさえ今は懐柔されてブヨブヨになった。)

オバマ政権は、ビンラデインやカダフィーを仕留めた瞬間のホワイトハウス内の写真を公開したが、経緯はWポストに卸され、それがネットで広まっている。つまりその影響は計算されているのであって、バカ正直に作戦室の中を晒しているのではない。

だからこそ、己の運命を任せる大統領の危機管理能力を、国民は大統領選を通して真剣に吟味する。逆に言えば、自分が選んだ大統領が、国家のために自分に死んでくれと言うなら、その決断は正しいとされる事をどこかで受け入れている。

日本は戦前戦後でこのバランスがあまりにも悪い。戦前は全員が国家に殉じ、戦後は一方的にそれが否定された。そして今、世界情勢が変わる中で危機管理の言葉が先行し、実践的な応用力を欠いている様相。

大地震という災害は経験したにせよ、危機管理は災害だけではない。では今後は何の危機管理をどう展開するのか。その全体像と、変化のスピードに関して国民に訴える報道があまりにも貧弱である。

いまさらだが、戦後の日本は米国の傘下であまりにも長く実践から遠ざかりすぎた。本気で危機管理の議論をするなら、沖縄を含め、まずこの構造をどうするかを議論すべき。そして災害だけでなく本当に国家存亡の危機管理をする覚悟があるなら、米国から独立し、危機に対する自分の触覚を磨くしかないだろう。

ただ残念ながら国民にも政治家にもその覚悟はなく、今日本で最も進んでいそうな危機管理は、企業が組織として己を守る危機管理。つまり企業の自己保身の危機管理。まあこれとて国家の危機管理が崩れれば、国内企業に意味はないが。

そういえば、日本が自主独立して間もない頃、危機に立ち向かった話が「坂の上の雲」だった。NHKは意図もって制作したのだろうが、3年に渡れば間延びしてしまう。またドラマは原作が最後に触れた重要部分が抜けていた。

あの戦争で国家の存亡をかけて作戦を立てたのは秋山真之と児玉源太郎。この二人は戦争後ほどなく死んでいる。司馬は、二人はそれだけ作戦に心血を注いだと添えているが、危機管理とは、そのレベルから生み出させる知恵の結晶でなければらない。