2012年8月15日水曜日

日本人とヒューマン(UPDATE)


基本的には個でシノギを削る世界にいる。日本人は自分だけ。だが自分のDNAでは限界があると感じることは多い。ではせめてその経験を活かせないか。それがこのブログをはじめたきっかけでもある。


ところで五輪を通し日本人の組織力は証明されたものの、一部を除き個人の弱さも明らかになった。では組織と個人どちらを優先すべきか。参考になりそうなのが、これもすこし前のNHK特集にあった。シリーズの名前は「ヒューマン、なぜ人間になれたのか」


4回シリーズのこの特集では、ヒューマンとネアンデルタール人の違いが詳しく紹介された。現代科学は、ネアンデルタール人はヒューマン(ホモサピエンス)に比べ強靭な肉体を持っていたとしている。

例として、もし当時オリンピックがあれば、人間はネアンデルタール人に歯が立たないという。ではなぜネアンデルタール人が滅び、弱いヒューマンが生き残ったのか。ソレは社会への順応性だという。

個として強かったネアンデルタール人は狩猟を単独で行い、独立を好んだ。一方でヒューマンは集団で生きることを選んだ。社会ができた。そして、点在したネアンデルタール人は、次第にヒューマンとの戦いに敗れ去ったというのである。


さらに人間社会が発展する過程で、番組はメソポタミア文明で初めて起きた徳政令を紹介していた。「アマギ」と呼ばれた徳政令は、年貢を納められず奴隷となった弱者が開放された瞬間をさすらしい

はじめ強者は、殺す、奴隷にするなどして年貢を納めさせた。だが奴隷ばかりになり、麦の作り手がいなくなると、罰や脅しではどうにもならないことを強者は知った。強者は強欲への自制を余儀なくされた。まさにこれも社会の特徴ではないか。


すこし前に1930年代に起きた「ダストボール」の話をしたが、先週アリゾナで大砂塵が起こった。株の29年の大暴落は20年代の共和党の統治の結果だが、大恐慌はもっと複雑な話である。

貧富の差は限界に達し「怒りの葡萄」を経て米国は社会保障拡充の時代へ入っていった。戦争も偶発ではなかった。このままでは次のアマギがありそうだが、この米国でもロムニーやポールライアンが何を言ってもその方向性は変らない気がする。

なぜなら既に人間は社会なしでは生きられない。そしてなによりも、先進国の現代人は、「LIFE IS HARD」という大原則を忘れている・・。

日本人の優位性はこれからが本番かもしれない。ただ今のところ日本人がイメージする社会は、同類の人が集まった集団という狭義ではないか。ではもっと大きな社会(世界)に対する順応性はどうなる。

そこからはやはり個の力。個として異を唱える力も必要である。急におだてられ、指導者まで行き当たりばったりでは、金メダルまでは到底届かないだろう・・。


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