宮沢喜一氏が亡くなって思いだす事がある。彼は政治家としてのピーク時(80年代後半から首相になるころか)既にどちらかと言うとサッチャリズムやレーガノミックスが先進国の主流になりかけた頃も、自身はケインジアンであると言い続けていた。
この15年の米国の変遷を見ても、ここまで浸透したフリードマン主義の背景には冷戦終結と言う政治的大転換が大きかった事が判る。逆にいうと、少なくとも冷戦時代という緊張関係の社会の中ではフリードマン主義にはまだ縛りがあったという事。その後世界がフラットになり、緊張感が無くなると、新しく始まったゲーム感覚社会ではケインズは骨董扱いとなった。そして更に実体経済から金融経済に移行する過程でフリードマンは世界のバイブルとなったが、ご承知の様に彼は昨年亡くなった。
ただ今、ある意味でフリードマン主義の象徴といえるクレジットの世界のシステム上の不安に、市場が始めて直面している。本質として、この「桃源郷」を支えた環境は、ケインズだフリードマンだのと言う理論の優劣ではなく、地球環境と政治模様だった事が窺える。逆に言えば、仮に世界に緊張が戻ると、個人的にはフリードマン主義は再び縛りを受けると考える。
平和なゲーム社会の中で養った感覚の優劣だけで歴史や宇宙物理の原理までも測ろうとする人が世の中のたし多数を占めた時、恐らく「其の事」は起こる。宮沢氏の死はそのタイミングを測る上で私自身には戒めとなった・・。
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