2010年11月11日木曜日

無責任な責任論

休日で日本のニュースを見ていて、日本社会の特質を再確認できた。それは、尖閣の映像流出の一連のニュースで、「責任」という言葉が異常な回数で登場した事。政治責任 監督責任 現場責任・・。ありとあらゆる人が ・・責任を叫びながらも、どこか迫力には欠けていた。

言い換えればこれも平和国家の象徴か。なぜなら本当に窮地に追い込まれた国家では、責任論がはびこる余裕などはない。そこにあるのは存亡の危機の緊張感。その意味では再び始まる「坂の上の雲」で、日本海海戦の当日、東郷元帥の「皇国の荒廃この一戦にあり・・」がどういう状況で生まれたか。もう一度感じるのもいいだろう。

そして責任論が流行るもうひとつの背景は、日本の社会が漫然とTOO BIG TO FAIL(大きくてつぶせない)を受け入れている証拠である。日本人の文化からしてそれが悪いとは思わない。だが国際社会との競争の中で、国家としての判断を迫られた時、ソレができるリーダーが育つにはあまりにも不毛な土壌だ。

考えてみれば、これまで米国の成長を支えてきた市場原理とは見事な仕組みだった。社会は個人の野心を認める一方で判断を間違えると市場原理は残酷だった。そして結果的にそこで生き残るリーダーの判断力が鍛えられた。それを実感するには筆者の仕事は丁度良かった。そこではローカルズやシカゴ筋と呼ばれる個人投資家が、取り引き所のフロアーを舞台に過剰流動性の中で優位に立つ大手投資家に立ち向かっていた。

自己資金のローカルズは生死を賭けた戦場での真剣勝負をしていた。だが救済される事が証明された大手は心理面で優位に立った。彼等の勝負は防具をつけた剣道の大会か、せいぜい木刀での道場破りの世界だ。つまり最悪のケースでもクビなればよい。結果シカゴ市場では伝統的にマーケットメークを担当してきたローカルズが弱体化した。そして今マーケットメイクはコンピュータのシステムが担当する。それは現物株も同じだ。

この市場の変貌が語るように、米国でも市場原理の時代は終わろうとしている。ならばこの国も、国民の不平不満は無責任な責任論で置き換えられる時代が始まってしまうのか。そのような時代になると、民主主義はそのスピードと迫力で全体主義には勝てないだろう。結果、国民は自ら民主主義を捨てる。それがワイマールの理想が敗れた後のドイツだった事は言うまでもないが・・。

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