2011年12月30日金曜日

年末特集 超資本主義時代の人間の品格

20数年ぶりに千昌夫が紅白歌合戦に出る。感想は、ついに日本も徳政令を受け入れる時代が始まったかだ。彼は数千億円の借金を1.6億円に縮小してもらい、数年前に完済したと聞く。ただしその減免を可能にしたのは長銀の破綻処理を介しての国税だ。

 それでもこれでNHKとしては千昌夫の過去を不問にできる。今被災地は「北国の春」を必要としている。ならば、千昌夫の復帰は天の声だろう・・。
 
 さて、年末にあたり、ムッソリーニを思い出した。ここではヒトラーの話をなんどもしたが、ムッソリーニを話題にする切欠はなかった。だが今年の年末は別。結果的に敵対したチャーチルも、ムッソリーニの見識を尊敬していたらしいが、来年は、皆が彼の慧眼に屈服する予感がする。
 
 嘗てムッソリーニは、「資本主義は、英雄が引っ張る時代(英雄資本主義)の後、国家が大きく関与する(国家資本主義)時代になり、その時代が終わると腐敗の時代(超資本主義)が始まると言った。
 
 日本の英雄資本主義は、松下幸之助などをイメージすればいい。そして国家資本主義はまさに高度成長期、優秀な官僚に率いられた護送船団の日本が目に浮かぶ。
 
 一方米国は、バンダービルド、カーネギー、ロックフェラーの英雄資本主義のあと20年代にバブルを迎えた。そしてそのバブルが弾けた後、米国も国家資本主義に移行した。
 
 戦時中は当然として、戦後も米国では政権と大企業が深く結びついた点で何も変わらない。日本との違いは、米国では企業や資本家に大統領を選ぶ力があっただけだ。大統領が変わると、彼らは政権を後ろで支配した。
 
 そしてその米国が理想の資本主義のように思えたのは、米国は市場原理を最近までは守ったからである。しかしリーマンショック後、米国は市場原理を放棄した。
 
 市場原理の放棄とは金融市場という狭義の話ではない。人間社会の尊厳という意味で、判断を間違った者達(金融)を許し、現状を維持することを優先したことを言う。
 
 結果、金融が自己弁護のために優秀な弁護士を雇い、いかにロビーイストが暗躍しても、この国が腐敗の「超資本主義」の時代に入ったことを否定できる人はいない。その現象の一つに株価がある。
 
 嘗ての資本主義では株は成績表だった。だが、超資本主義では株価を上げることが正義だ。そこではマネーをつくる中央銀行が、「プレーヤー」として市場を買い支えることになる。
 
 ただし、この資産効果を末端に下ろすためには、米国は住宅をなんとかしなければならない。しかし住宅に見込みが立たない中で、嘗ての高給を諦めない金融は、その効果を末端に下ろさず、自分のところで留めている。
 
 この状況で国家が取りうる手段は二つ。金融を規制し公務員化すること。つまり日本型だ。オバマ政権と民主党は表向きこの道を探っている。(ドットフランク・ボルカールール)
 
 一方金融でも大企業でもなんでもいい。稼ぐべき人に稼がせるほうがいいという考え方が共和党だ。しかし、この二つともうまくいきそうにない。それはなぜか。
 
 理由は、HUMAN DECENCY(人類の品格)よりもマネーが優先される時代をどう生きるかを先進国も結論を出していないからだ。徳政令が現実味を帯びるなか、2012年はその結論を迫られる事になるだろう。






0 件のコメント: