2009年2月25日水曜日

日本の最高傑作

本日各放送局ではNY時間夜9時に予定されているオバマの一般スピーチが大々的に取り上げられている。このスピーチは上下両院を前にした正式なモノだ。

そして彼が大統領になってからは初のビックイベントである。従って朝からオバマはその準備で彼は忙しかっただろう。

実は麻生首相との面会はその間隙をぬって行われていた。CNBCとCNNを見た限り、オバマと麻生首相が会談した時間に、その事を報道した様子はない。

もし夕方の一般ニュースで会談が報道されない場合、記憶では、日本の首相が米国に訪米し、その事が完全に無視された初のケースになる。(短命だった安倍・福田の両氏も簡単に報道された)

これは日本が無視されたというより、麻生首相のスケジュールが一国の首相としてはにあまりにも短い印象を残す。

麻生首相は、ダボス会議にもちょこっと顔を出し、トンボ帰りをしていた。国内が尻に火が付いた状態とはいえ、もう少し首相として堂々としたスケジュールが組めないものか・・。

余裕がないなら無理して自分で外に行く必要はない。本来それは国益を考える役人の判断力の話だ・・。

ところで、そんな首相とは逆に、米国で存在感を示したのは日本映画だ。二つの日本の作品がアカデミー賞を獲得したのは確かに快挙。

だがこれも、「日本を大切する米国」を印象付けられた可能性もある。なぜなら、アカデミー会員の大半は政治意識の高い人だ。今の米国は、日本を必要としている・・

逆に、一昨年のアカデミー賞では、事前に専門家が一番評価した作品賞候補は実はクリントイーストウッドが撮った「硫黄島からの手紙」だった。

だがその年はカリフォルニアの日系下院議員マイク本田氏が議会に提出した慰安婦謝罪要求案が成立した年だった。

因果関係の立証はできないが、作品賞を受賞したのはマーチンスコセッシの香港映画のリメーク(DEPARTED)だった。誰かのリメークにアカデミー賞の作品賞が贈られたのは後にも先にもこの時だけである。

スコセッシ監督はそれまでに良い映画を作りながら受賞を逃した悲運の人だったとはいえ、有名俳優が挙って出演しただけの「お祭り」が注目されただけで、脚本も原作をそのまま真似た凡作に「作品賞」が贈られてしまった

ラスベガスのアカデミー賞の賭けでこれまで負けた事はない。個人的にあの年は本当は「硫黄島」の年だったと考えている。いずれにしてもアカデミー賞と言っても政治と無縁ではない事は確かである。

さて、世界で日本の様々な作品や物産は評価されている。ただ麻生総理をみると、逆に「作品」として一番評価されないのは日本の政治家ではないかとの思いになる。

ただ日本国内が平和ならそれはそれで良い。そんな中でこれが「日本の最高傑作」をと個人的に感じた「作品」がある。

それは先週のNHK特集からだった。日本の物造りの確かさやアニメや映画の独自性は今や世界中が知っている。だがまだ世界の多くの人が全く知らない日本の最高傑作とは何か。それはTOKYOではないか。

時々TOKYOはどんな街かシカゴ人に聞かれる。

だがNY人と違い、シカゴ人の多くはまだまだ田舎者である。NYでさえ知らない彼らにTOKYOの機能を私は説明できない。

またNHK特集を見る限り、自分がに田舎者の一人である。そして特集では進化するTOKYOの新しい機能に圧倒された。丸ノ内の三菱地所や森ビルの森社長の飽くなき開発への情熱は企業人として感動した。

ただ最後に自分とは全く違う感性がTOKYOの人々に芽生えている事実も知った。高層マンションが集まる街にできた新しい巨大小学校。

そこに通い高層の階に暮らす子供たちは東京の夜景に、昔自分が北アルプスに感じた感動と同じ美しさを感じている。

この子供達が大人になった時、生物学的に自分と同じ生き物になっているとは思えない。それを彼らの時代は進化と呼ぶだろう。

地下から空へ縦横無尽に空間が発達するTOKYO。その進化する力を今は誰も疑っていない。

この光景と同質の自信を、10年ほど前に私は米国の金融市場の発展の中に観た。だがその自信は、バベルの塔の如く崩れ去った。

まだ知らぬ天変地異の威力や宇宙物理の原則さえも、TOKYOは凌駕できただろうか・・。


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