2010年1月4日月曜日

衆口難調の年初、必要は竜馬にあらず。

久しぶりに新年の始動を日本で迎えた。今年はシカゴで紅白歌合戦を観て翌朝にはJALに乗る慌ただしさだったが、紅白からは演歌歌手を駆逐するジャニーズパワー、(この支配力は米国の金融市場でのゴールドマンに匹敵する)また渦中のJALからは乗務員の懇願にも近い必死さを感じた。しかし滞在中の都心のホテルは一昔前のビジネスホテル並みの低価格。最早このデフレは合理化の過程というよりも崩壊そのものではないか。

そして年末年始は恒例の「日本をどうするか」という討論。ただ今年はことさら「衆口難調」だ。これは誰の口にも合う料理を創るのは難しいという中国の言葉。確かに現状不満から自民党政治には明確なNOを突き付けた日本人だが、その後国家としてまた自分自身で何をすべきか決まっていない。だからこの種の討論議論も不毛地帯の様相だ。

ところでそんな日本では今年の大河ドラマは再び竜馬。そもそも戦後の日本では司馬遼太郎という一人の作家によって歴史上の二人の英傑の評価が激変したと言われている。一人は凋落。そして一人は個人的には過大評価と思えるほどの頂点へ。前者は「坂の上の雲」の後の乃木。そして後者は追うまでもなく「竜馬がゆく」後の竜馬である。

まずどう見ても今のNHKは司馬遼太郎と共にあるが、今年の大河はその竜馬を岩崎弥太郎に語らせるという点が実はポイントだ。原作が無く脚本家はNHKの意向を無視できないだろう、従ってストーリーからはNHKの意図が探れる。そして初回を見た限りでは印象は事前に予想した通りだった。

一部の人には話したが今年の大河ドラマは三菱には迷惑なモノになるのではと予想した。なぜなら現在の日本を代表する財閥としての三菱グループのイメージは岩崎弥太郎本人についての伝記や史実からのイメージとは異なると感じてきたからだ。言い換えると「紳士」という三菱のイメージとは裏腹に、弥太郎の時代の西南戦争での暴利や藩札廃止から通貨としての円の誕生における三菱の影響力についてはこれまであまりドラマ等では取り上げられていない。それを今回の大河では敢えて竜馬と弥太郎を対比させる事で盛り上げる意図が初回かも十分感じられた。

この影響は大きいだろう。ジャニーズパワー然り、若い女性からも絶大な人気を誇る福山の竜馬伝が高視聴率になると、弥太郎のイメージを介して三菱に対する一般のイメージも変化するかもしれない。ただ三菱が先輩の三井や住友を上回る力を築いた背景には激動期の弥太郎自身の能力と戦後の米国との関係があるならば、その米国の力が弱まる中で今後の日本の成功モデルがどうあるべきか。結果的にそこまでフォーカスが当ればNHKとしては成功である。

しかしそれはそれとして今ほど岩崎弥太郎の様な人材が再び日本に必要な時はない。そして主役は竜馬だが必要なのは弥太郎という構図は今の政治も同じ。先日舛添前厚生大臣が今の自民党に必要なのは小沢一郎を超える権力者だと言い放った。再び時流「坂の上の雲」の世界に戻るがあの小説で個々の人物に並んで重要なポイントは国家として姿勢。それが一番に現れるのが「皇国の興廃この一戦にあり」の場面である。

この表現は世紀の海戦を前にした東郷による鼓舞の言葉。だが当時の日本の命運はその表現と大差ない状況であったはずで、その重圧の中で登場人物は奇跡的な活躍をする。追い込まれた今の自民党は権力を誰かに集中して乾坤一擲の戦をすべきとする意見と、民主党の自滅を待つ意見があるのだろう。結果は判らない。だが仮に後者が正しい場合は小沢一郎は失脚しているかもしれないが、だがその時日本の姿は再び「引きこもり」を模索しているに違いない。

結局は今の日本人に本当の危機意識はない。だから権力を誰かに集中して日露戦争の様なリスクをとる事など考えられない。ならばその段階では日本をどうするの議論に結論はでない。だが米国から日本人として日本を眺めてこれまでの様な「引きこもり」には最早勝機を感じない。そして結果はともかく日本に必要なのは竜馬ではなく岩崎弥太郎の様な経営者とその竜馬を暗殺した黒幕とされる西郷隆盛の様な決断者である。


0 件のコメント: