2010年1月14日木曜日

日本史の原則、蘭麝待の危険な香り

停滞する経済の中、答えを見いだせない現実を何とかしたい気持ちの表れか、日本滞在中に気付いたのは日本が歴史ブームにある事だ。ここ数年の大河ドラマが若い人を引き付ける役者を揃えた事も貢献しているのだろう、「丸善」には懐かしい「山川」の歴史の教科書が新刊コーナーに山積みとなっていた。

ところでその日本の歴史には特定の主役がいる事を改めて思い出してほしい。歴史に特定の主役がいるというのは他国ではあまり例がなく、それは言うまでもなく皇室だ。日本史の流れでは途中武家が織りなしたドラマも結局は天皇を超える事は出来なかった。そしてその「日本史の原則」からすれば、権力を既に掌握したはずの小沢幹事長の昨年の行動は今となっては軽率だった事になるかもしれない。

なぜなら誰も知っている日本の歴史をみても過去権力の頂点にあった人が天皇の存在を超えようとした瞬間、あるいはその存在価値を無視した瞬間にその座を失った事実は有名。ならばなぜ小沢氏はこの原則を無視したのだろうか。習近平が天皇と会ったあの場面はオバマ大統領が自然に天皇に頭を下げた瞬間と比較しても習氏の威圧的な態度は日本人には衝撃だったはずだ。

ただこの国に住んで米国の衰退を目の当たりにする立場からすれば日本が米国から中国に軸を移す選択に議論の余地はない。だが小沢氏の権力は既に盤石だったにもかかわらず、それを敢えて誇張したいがための民主党の大訪中団と胡 錦濤主席との握手は、仮にその代償として習氏と天皇との面会が強引に用意されたならば必要のない拙速かつ勇み足だったのではないか。

個人的には今の日本に必要なのは竜馬ではなく西郷隆盛の様な剛腕と考えているだけに、それにもっと近づいた小沢氏が今失脚するのは残念だ。だが仮にそれが避けられないなら歴史上天皇を超えようとした前例とされる足利義満と織田信長に習い、小沢氏は蘭麝待の御香だけでも嗅いでおくべきだろう。まあこの匂いを嗅いですぐに命をおとさないならば良しとすべしか。


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