2008年8月19日火曜日

<今日の視点>美しい引退と哀れな引退

CNBCによれば、中国の劉翔選手はこのまま引退する可能性が高いという。既に十分金は得た。金は得たが生活は国家に管理され、恋人も禁止だったという。要するにアテネからの4年間、彼は北京五輪の成功と、飛躍する中国の象徴として国家による国策のロボットだったといってもよい。そして北京での中国の飛躍が確認された今、彼らの役割は終わったのだろう。いずれにしても彼が円谷選手の様な悲劇に陥る必要はない。

さてその意味で日本のマラソン選手の今後はどうなるのか。言うまでもなく、日本人にとってマラソンや駅伝は特別な競技だ。国技のような人気があり、金メダル選手は国民栄誉賞候補になる一方で期待を裏切ると中国ほどではないがマスコミも冷たい。ところで、日本人がマラソンや駅伝を競技として好きな理由は、競技の特徴である「忍耐」と「自己犠牲」が日本の国民性の中でも重要な価値観であるからなのは言うまでもない。そして其の国民性が支えてきたのが日本の戦後の会社組織だ。

先週のエコノミスト誌は其の日本の国民性が市場原理が台頭する中で古臭い時代遅れのような扱いを受け、国民が自信を失った90年代に架空の世界でガス抜きの様な役割で人気を得た漫画の主人公の「島耕作」が終に社長になった事を紹介している。ただ記事の内容は一部報道で紹介された現実の日本の経営者も「島耕作」を見習うべきという内容にはなっていない。弘兼氏が描く「島耕作」が現実の日本ではあり得ない事はエコノミスト誌も十分承知している。

現実の日本では、王や長島が活躍したプロ野球を見ながら、五輪では柔道の結果に一喜一憂していた頃が実は会社組織の生産性では一番活力があったのではないかと最近感じている。そして90年代からはグローバルスタンダードに従って市場原理のシステムを取り入る時代に突入したが、日本人の駅伝やマラソン競技に対する趣向は変わらなかった。其処にある意味での矛盾が存在する。

その意味では日本の社会が世界と競合する上で目指すのは「島耕作」ではなく「北島コウスケ」型ではないか。北島はマイケルフェルプス一色の米国NBCが、100Mの後、星条旗が全く掲げられない表彰式で(銅メダルまで米国人がいない)君が代を伴奏にメダル授与のシーンを最後まで放映した希少な選手だ。そしてその北島は日本人が得意な「美しい泳ぎ」で「速さ」というグローバルスタンダードを制したのである。また、体操ニッポンもその意地と片鱗を見せたが、メダルは筋力だけで争うものではない。実は実業も含めて日本の目指す姿はここにヒントがあるのではないか。

そんな中あの清原の引退表明は物悲しい。彼はグローバルスタンダードを目指して米国に渡米。その後体型が明らかに変わった。その変化はトロントで活躍した頃の痩身マクガイヤーが、サミーソーサとホームラン競争した頃は全く違う体型になっていた変化と全く同じ変化だった。しかし清原の晩年、其の体はボロボロで哀れだった。何が原因だったかは想像に容易い・・。

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