ニュージャージー州は財政難を克服するため、金持ちへの増税を検討している事が話題になっている。同州には日系駐在員も多い事から、この話は日本企業も注目するだろう。ところで同州のTeaneckはマンハッタンに近く1920年代に急発展を遂げた。だがその煽りで大恐慌後には町の財政が破産に瀕した。そこで危機を救うべく特命任務を受けた人がいた。彼は1930年から1950年までの20年間に渡り、町の特命財務官として力を注いだ。そして見事に復興を成し遂げたのである。その人の名前はPaul A. Volcker。そう、我々が知っているあのボルカーの父親である。(グリーンスパンの前のFED議長)
息子のボルカーJRは母親とドイツの宗教改革の本流の一つ、ルーセラン教会に行きながらこの父親の背中を見て育った。そして70年代後半、この国に不景気とインフレが起こると今度は彼がFED議長として躊躇なくインフレに立ち向かった。その際に政策金利を21.5%まで引き上げた時は、不況で苦しむ巷には彼の顔を入れたWANTED(御尋ね者)張り紙が貼られたらしい。そしてその強権ぶりを「月額500ドルの賃貸アパートに住み、4兆ドル(400兆円)の経済を支配した男と揶揄されたボルカーは、経済が回復基調に乗ると父親のように評価された。(1980年前後のワシントンの賃貸と当時の米国のGDP)
そのボルカーが提唱した新しい金融ルールが法制化されるかどうか、今米国の国会議員は最後の審議に入っている。そして横ではFOMC(米国の日銀会議)が開かれている。だがここに集まるの人々の顔ぶれも変わった。まずグリーンスパン、バーナンケとユダヤ系の議長が続き、そして重要な脇役には以前は統治された側の証券業界の出身者が多数入った。まあこうなるとこの会議から出てくる答は決まっている。つまりこ会議には昔の様な神聖さは存在しない。
言い換えればそこにあるのは巷への迎合だ。ボルカー時代とグリーンスパンの初期まではFEDにはバチカンの雰囲気が残っていた。FED議長はローマ法王。その時代、世界金融とはFEDの指導する金融の教義を学ぶ事に等しかった。だが金融危機でFEDは教義を変えた。背景に庶民の苦しさを救済する目的があったが、本来の聖書とは苦しくても正しく生き、それを耐える為の心の豊かさを維持するために残された言葉だったはず。だがそんな弱い庶民を導く役割だったFEDは庶民からの人気を優先、自ら聖書を書き変えたのである。
こうなると世界はFEDを金融の総本山とは思わないかもしれない。まずドイツが「刺激策はもうやめよう」と提唱したのはその走りである。そして審議中の重要な法案はボルカーの提唱をそれほどは含まない内容に向かっている。両院会議が始まった頃はリンカーン議員のデリバテイブ規制よりもこのボルカールールが優先されると思われたが、ここにきて逆の展開になった。
そもそもボルカールールとは金融のあり方を原点に戻すという理念が本質。だがリンカーンの提案は方法論である。リンカーン議員の提唱する銀行のデリバテイブ規制も別会社でならOK。ならば最終的にはそれ程の違いはない。
この様に表面を取り繕う手法が近年の民主党の特徴。そしてこの政権にはそれにたけた人がいた。だがその人事にも綻びが出てきた様子。まず政権内で予算を担当したピーターオルザック氏が任期途中で辞任する。そもそも政権のスタッフの任期は最低でも2年が常識。余程の事情が無い限り、2年を全うできないのはオバマによるクビか、本人がサジを投げたかのどちらかだ。オルザック氏の場合どちらのケースかは言うまでもない。
そして中間選挙後にはマニュエル首席補佐官が去ると見られている。だがこのままボルカールールが形骸化されれば、彼が辞めるのも時間の問題だろう。そうなると最後はオバマか。個人的にはオバマ本人が再選を望まない事もあり得ると感じている。
いずれにしても、世界が緊縮を覚悟する中、総本山のFEDが迎合政策(救済政策)を続けていては世界から金融の教義としての信認を失うだろう。一方結果としてのドルの暴落を防ぐために機能していた強調政策の要の人材が辞めていく事態ではこの国にはどんな手段が残されるのだろう。その意味を世界が感じた時、ゴールドがいくらになっているか興味深い。
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